黒川藩

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黒川藩・歴史・観光・見所
黒川藩概要: 黒川藩は享保9年(1724)に柳沢吉保の四男柳沢経隆が1万石で入封して初めて立藩しました。柳沢吉保は五代将軍徳川綱吉の側用人として出世を重ね、当時としては異例の500石から15万石余りの大名まで上り詰め、出身地である甲府藩(山梨県甲府市)の藩主に就任しています。しかし、宝永6年(1709)に綱吉が死去すると、政敵から疎まれ吉保は隠居に追い込まれます。柳沢家の家督を継いだ吉里は弟である柳沢経隆と柳沢時睦には領内からそれぞれ1万石を分知し甲府新田藩が立藩、しかし、享保9年(1724)に吉里が大和郡山藩(奈良県大和郡山市)に移封になった事に伴い柳沢経隆も越後国蒲原郡黒川の地に移封となりました。

黒川藩は1万石という石高が低い事もあって柳沢家は定府大名として黒川陣屋で政務を行う事が基本的にはなかった為、郡奉や代官、勘定方などが藩政を司ったものの政治的には不安定な状況が続き一揆まがいの騒動が頻発していました。又、領内の8割近くが山林であった為、積極的な新田開発もままならず、城下が米沢街道(越後街道)羽州浜街道の宿場町だった事から宿場人馬の制度を整備するなどの政策しか打てないでいました。幕末の混乱期の文久3年(1863)に7代藩主柳沢光昭が初めて御国入りを果たし藩校を開校させるなど良政を行いますが明治元年(1868)に戊辰戦争に巻き込まれます。黒川藩は当初、小藩といえど譜代大名という立場もあり奥羽越列藩同盟に参加しましたが同じく同盟側の新発田藩が新政府側につくと戦局が大きく変化し、隣接する三日市藩共々陣屋を無血開城し新政府軍に恭順しました。その後、8代藩主柳沢光邦が黒川藩知事となり明治4年(1871)に発令された廃藩置県により黒川県に同年に新潟県に編入されます。


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黒川藩歴代藩主
 藩主名藩主年間石高備考
初代柳沢経隆1724〜17251万石 
2代柳沢里済1725〜17351万石 
3代柳沢里旭1735〜17361万石 
4代柳沢保卓1736〜17741万石 
5代柳沢信有1774〜17971万石 
6代柳沢光被1797〜18361万石 
7代柳沢光昭1836〜18681万石 
8代柳沢光邦1868〜18711万石 

黒川藩
黒川藩城下町:町並み
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黒川藩城下町:町並み 黒川藩城下町:町並み 黒川藩城下町:町並み 黒川藩城下町:町並み
黒川藩:名所・旧跡
黒川陣屋
黒川藩の藩庁が置かれた黒川陣屋
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藩主位牌寺
黒川藩の藩主と縁のある長谷寺
長谷寺
 
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