出雲崎宿・町並み

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写  真 備  考
出雲崎宿(北陸街道)
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【北陸道】−北陸道の定義は諸説ありますが当サイトは今庄宿(福井県南越前町)から新潟湊(新潟県新潟市)を北陸道と仮定します。古くは朝廷から越後国府を結ぶ官道で、大化3年(647)新潟市沼垂付近に古代城柵である渟足柵が築かれると北陸道も新潟湊まで延長されたと推定されています。近世の街道制度でいう宿場町にあたる「駅」は「滄海駅(糸魚川市青海)」→「鶉石駅(糸魚川市鶉石)」→「名立駅(上越市名立)」→「水門駅(上越市直江津湊)」→「佐味駅(上越市柿崎)」→「三嶋駅(柏崎市)」→「多太駅(柏崎市刈羽)」→「大家駅(長岡市和島)」→「伊神駅(弥彦村)」→「渡戸駅(長岡市寺泊)」とされ、そこから『蒲原津湊(新潟市:新潟湊)』と『渟足柵(新潟市)』を結んだと思われます。これにより、正式な官道としての北陸道は渟足柵までと推定され、これより以北には記録上は「駅」が存在していません。その後、磐舟柵(新潟県村上市)、城輪柵(山形県酒田市)、秋田城(秋田県秋田市)と朝廷の勢力が拡張するに従い、連絡道として官道に準じる道が開削されたと推定されています。

【江戸時代】−江戸時代に入ると改めて北陸道が整備され、糸魚川宿で千国街道、直江津湊付近で北国街道、寺泊宿三国街道に分岐し、新潟湊から羽州浜街道と接続し出羽国と結びました。加賀藩(石川県金沢市)と富山藩(富山県富山市)、大聖寺藩(石川県加賀市)は北陸街道と北国街道を利用して参勤交代を行っており、加賀藩は糸魚川宿の本陣を定宿としています。

【出雲崎宿】−出雲崎宿(新潟県出雲崎町)は古くから日本海の海上交通の要衝として知られ、伝承によると文治2年(1186)に兄源頼朝に追われていた源義経が勝見浦に上陸し、愛妾だった静御前と重臣佐藤継信・忠信の母親である音羽御前が義経を見送った後に出雲崎に留まり勝見稲荷堂を創建し、音羽御前が尼となって釈迦堂(現在の念相寺)に勤めていた際に袈裟を被ったまま踊った事が「出雲崎おけさ」の発祥とも云われています。出雲崎宿は北陸道の宿場町であると同時に佐渡島に渡る舟の渡船場(港町)でもあった為、文明年間(1469〜1486)には越後国守護職の上杉家がそれらを管理する陣屋が設けられました。江戸時代に入ると佐渡島にある佐渡金山が幕府直轄の金山の中で最大、世界的に見てみも有数の産出量を誇った事から重要視され天和2年(1616)に周辺を天領(幕府直轄地:出雲崎領は概ね7万石程度)として支配し、出雲崎宿には幕府の天領陣屋が設けられました。又、名僧として知られる良寛の出身地としても知られ生家・橘屋の跡地には良寛の遺徳を顕彰し良寛堂が建立され、幼少時に修行を積んだ光照寺などの縁の史跡が点在しています。

【町並み】−現在でも当時の道幅と変わっていないと思われる街道沿いには間口が狭く奥行のある敷地割が残され、概ね木造2階建、切妻、桟瓦葺、妻入の古民家が軒を連ね独特の町並みが残されています。

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