津川・町並み

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写  真 備  考
津川宿(越後街道)
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【越後街道】−越後街道(新潟県側からは会津街道と呼ばれた)は鶴ヶ城下(福島県会津若松市)と新発田城下新潟県新発田市)を結んだ街道で、江戸時代には村上藩新潟県村上市)と新発田藩(新潟県新発田市)が参勤交代で利用しました。又、新潟湊で陸揚げされた佐渡金山の金を江戸に運ぶ経路の1つでもあり佐渡三道の1つに数えられました。日本海の海産物を内陸部(会津盆地)にあった鶴ヶ城下に搬入する街道として重要視され会津藩では会津五街道の1つとして整備しました。新潟県では山内宿が新発田藩の最南端で藩の番所が置かれ、逆に、隣の宿場町である赤谷宿が会津藩の北端で同じく藩の番所が置かれ、人物改めや荷物改めが厳重に行われました。戊辰戦争時には激戦地となり、逸早く新政府軍に転じた新発田藩は先鋒となり、越後街道を南下して鶴ヶ城を目指しました。

【津川宿】−津川宿(新潟県阿賀野町)は越後街道の宿場町と同時に阿賀野川舟運の最大の拠点として繁栄した川湊町です。阿賀野川は難所も多く、津川宿を越すと一般的な舟が通行不能の場所があった為、新潟湊から積み込んだ荷物は津川宿で一端陸揚げされ、陸路でその難所を越えて、再び舟運に積み替え鶴ヶ城下を目指しました。その為、津川宿には多くの物資の集積地となり、日本三大川湊に数えられる程に繁栄し、会津藩も代官所を設けるなど当地方の最大の拠点として重要視しました。又、雪国の町屋で見られる「雁木」発祥地とされ慶長15年(1610)に津川大火で多くの家屋が焼失した際、当時の津川城の城主岡半兵衛重政が再建した町屋の正面に土庇を設けたのが始まりとされます。現在でも雁木の思想は継承され、新たに建てられた町屋にも設けられ、雁木の町並みを見る事が出来ます。明治11年(1878)にはイギリス人女性紀行家イザベラバードも津川宿にある宿屋に宿泊し、津川宿の町並みを、建物は切妻屋根、茅葺ではなく板葺で上に大きな石で重しにし、庇の下がベランダ(雁木の事と思われます)となって続き通りは2度屈折(現在と同じ枡形)していると記載しています。

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