妙高市: 関山宝蔵院跡

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概要・歴史・観光・見所

関山宝蔵院跡(妙高市)概要: 関山宝蔵院は和銅元年(706)に裸行上人が関山宝蔵院跡(妙高市)勧請した関山神社の別当寺院早くから神仏習合の形態を取っていたと思われます。妙高山(標高2454m)自体が信仰の対象となる妙高山山岳信仰の中核を成し、関山神社の祭祀を司るだけでなく道場としても機能し多くの修験僧が当寺を利用しました。往時は妙高山を中心に前山(標高:1932m)・赤倉山(標高:2141m)・三原田山(標高:2347m)・神奈山(標高:1909m)・大倉山(標高:2171m)・火打山(標高:2462m)・不動山(標高:1430m)の8山を支配し関の庄一帯は関山神社、宝蔵院の所領とされ許可が無ければ入山禁止とするなど半ば治外法権のような支配体制を確立していました。

鎌倉時代には木曽義仲が戦勝祈願の為、妙高山山頂の持仏の阿弥陀三尊像を当時は山頂にあった妙高堂に奉納し、戦国時代には春日山城の城主上杉謙信の帰依が特に篤かったとされ最盛期には七堂伽藍70余坊を抱える大寺院となりました。天正6年(1578)謙信の死によって引き起こされた「御館の乱」は上杉景勝と上杉影虎の二人の養子が家督を巡る壮絶な戦いとなり、領内は両陣営に2分して対立した為、上杉家自体が弱体化しそのと間隙をついて織田信長家臣森長可が越後に侵攻、宝蔵院は関山神社と共に全山焼き討ちとなり多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失し衰微します。

江戸時代に入ると幕府要人で天台宗の僧南光坊天海の弟子俊海によって再興されると幕府からも寺領100石が安堵され寺運も隆盛します。文化11年(1814)に高田藩3代藩主榊原政令が赤倉温泉を開発した際、源泉が宝蔵院の管理下にあった事から源泉引き込み料として800両、同じく宝蔵院の管理下にあった関温泉に迷惑がかかるとして300両が支払われています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により関山宝蔵院は廃されます。堂宇が破却されるなか庫裏だけは明治11年(1878)に東本願寺新井別院に移設し明治天皇北陸巡幸の行在所に改修され現存しています。

関山宝蔵院跡地には石段や石庭、住職の墓碑などが残り昭和55年(1980)に新潟県指定史跡に指定されています。特に庭園は妙高山を借景にした池泉式庭園で御膳清水と呼ばれた霊泉を引き込んで高さ5m程の滝を造り出し、庭園そのものが妙高山の遥拝所として機能しました。文明10年(1478)、宗祇(室町時代の連歌師)が当寺で連歌会を開いた際、庭園を賛美したと伝えられています。旧関山宝蔵院庭園は平成25年(2013)に国指定名勝に指定されています。ここからやや離れた場所には墓地が残され名称「関山宝蔵院墓所」として平成28年(2016)に妙高市指定史跡に指定されています。

関山宝蔵院跡:上空画像

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板


関山宝蔵院跡:ストリートビュー

関山宝蔵院跡:写真

関山宝蔵院跡
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