富川家住宅(長岡市)概要: 富川家は江戸時代中期から代々長岡藩の検断を勤める家柄で栃尾地方の行政の一端を担っていました。その為、屋敷も大きく間口23間、15部屋ある豪邸で背後には土蔵が建ち並んでいました。江戸時代後期には書家として知られた富川大塊を排出、嘉永元年(1848)、滝の下町の十二山神社に献上された「富川大塊書幟」と「富川大塊書屏風」は長岡市指定有形文化財に指定されています。
又、富川家は名僧良寛禅師との関係が深く、良寛が栃尾に来た際には厚くもてなしたと伝えられ「一度さへ 心にかかる とちうの町 双六 碁盤 からりころり」の歌を残しています。戊辰戦争では長岡城を巡る攻防戦が激化し、双方が順じに城を取り合う激戦となり富川家住宅は長岡藩、新政府軍の本陣として利用されました。
建物は、木造2階建て、切妻、鉄板葺き、妻入り、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、前面には"雁木"が設えていて栃尾の町並みの町屋の典型を現在に伝えています(庭園は道路側に接しているものの高塀で仕切られ、その高塀にも雁木が備えられています。このように道路側が全て雁木で連続していないと、冬場はその機能が十分に発揮出来ず、結果として特徴ある町並みが形成されています)。
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