蔵王堂城(長岡市)概要: 蔵王堂城の築城年は不詳ですが南北朝時代には砦のようなものがあったようです。文和〜天授年間(1352〜1381年)には長尾景春が城主となり、戦国時代末期になると長尾為重が本格的な築城をし、その後は長尾家、上杉家の家臣が城代として入ります。天正6年(1578)、上杉謙信の後継者争いである御館の乱が起きると、当時の城主は上杉影虎方に与した事で上杉景勝方から攻められ落城し、その後は景勝に従った松川氏が城主として配されました。
景勝が居城を春日山城(上越市)から鶴ヶ城(福島県会津若松市)へ移ると堀秀治が領主となり蔵王堂城には弟である堀親良が4万石で入封、慶長5年(1600)の関が原の戦いで親良は秀治や堀家執政である堀直政など共に東軍の与した事で領地が安堵され蔵王堂藩を立藩します。
2代目堀鶴千代は幼少時に死去し蔵王堂藩は廃藩、一時、坂戸藩(藩庁:板戸城)に編入され藩主である堀直寄が管理しますが、慶長15年(1610)からは高田藩(藩庁:高田城)領となり松平忠輝家臣の山田隼人が城代として入ります。
元和2年(1616)に忠輝が改易になり堀直寄が蔵王堂城主となり再び蔵王堂藩が立藩されます。しかし、この地は信濃川に余りにも隣接していた事で水害に悩まされ、すぐさま長岡城を築城し完成と同時に蔵王堂城は廃城となり、長岡藩へと移行します。
蔵王堂城の城域は仁治年間(1240〜1242年)に勧請された蔵王権現(現金峯神社)の境内で蔵王城が廃城になると再び神社の境内となり別当である安禅寺の堂宇が配されました。その為、城郭としての施設的なものは破棄されましたが、堀や土塁などは旧状を保ったまま保全されました。
明治時代に発令された神仏分離令後は安禅寺が排された事で次第に宅地化されましたが現在でも本丸周辺の土塁と堀の一部が明瞭に残っています。又、明治18年(1885)、本丸に残された毘沙門堂を本堂として再び安禅寺が再興され、本尊である毘沙門天像(11世紀後半作、檜材、一木造、像高151cm)が長岡市指定文化財に指定されています。蔵王堂城の跡地は中世平城の遺構として貴重な事から長岡市指定史跡に指定されています。
蔵王堂城:上空画像
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