三条城(三条嶋城)

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概要・歴史・観光・見所

三条城概要: 元の三条城は平安時代に三条左衛門が築いた平城で交通の要衝で軍事的拠点として重要視され長き渡り利用され続けられました。慶長3年(1598)に春日山城堀秀治が入ると要衝である三条城には家老である堀直政が5万石で配されますが、直政は秀治の側近として多くの業務があった事から直政の嫡男である堀直清が城代として赴任しています。

慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いで堀家は東軍に与した為、西軍の上杉家家臣直江兼続が画策した上杉遺民一揆により攻められています。慶長15年(1610)に堀直清は弟である堀直寄との確執から御家騒動に発展し本家である堀忠俊と直清が改易となり三条城も廃城となりました。

その後の利根川の洪水により大破した為、当地に新たな三条城が計画されました。元和2年(1616)、4万1千3百石で当地に配された市橋長勝によって新たな三条城が築かれました。三条城は幕府からも当地が会津街道の押さえとして重要視され、市橋家に対し堅城にするように念入りに注文をつけています。 元和6年(1620)に長勝が江戸藩邸で死去すると、嗣子が居なかった為に一橋家が断絶する可能性がありましたが、長勝は徳川家康から信任されていた事もあり、長勝の甥である市橋長政が末期養子として認められました。

しかし、長政は采配領地を2万石に減ぜられ仁正寺藩(滋賀県日野町)に移封になった為、三条城を離れ、代わって稲垣重綱が2万3千石で入封しました。その重綱も元和9年(1623)に大坂城番、慶安4年(1651)に刈谷藩(愛知県刈谷市)に移封になった為、三条藩は廃藩となり三条城も廃城となります。

三条城の城域は城下町を囲い込む総構えで内部には本丸、二之丸、三之丸が配されていました。本丸の規模は東西60間(約109m)、南北57間(約104m)で外堀の広さは約60〜70mと広く幕府が支持したように堅城だったと云われています。現在は都市化により堀や土塁などの遺構は壊滅し、僅かに城門の1つが本成寺の山門として移築されています(伝)。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-三条市

三条城:写真

三条城
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