菅谷不動尊 |
菅谷不動尊は鎌倉時代初頭に護念慈応上人がインド伝来の不動尊像を本尊として勧請し一宇を設け創建しました。護念慈応上人は鎌倉幕府初代将軍源頼朝の叔父であった事から、菅谷不動尊は頼朝や3代将軍源実朝が篤く帰依し寺領の寄進や堂宇の造営が行われました。建長5年(1195)の火災では本尊の不動尊像をタニシが守護して業火から守った事から現在でも守護神として信仰の対象となっています。菅谷不動尊本堂及び山門は新発田市指定文化財に指定されています。弘法大師越後二十一ヶ所霊場第10番札所。
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弥彦神社 |
弥彦神社が何時頃から信仰され始められたのかは判りませんが、伝説では天香山命(弥彦神社の祭り神)が越後国の開発し、その功績を讃えて弥彦山の山頂に勧請されたと伝えられています。弥彦神社は平安時代に成立した、延喜式神名帳で越後国54社の中で唯一の名神大社である事から格式が高く、戦国時代には上杉謙信や国人領主からの願文からは越後国一宮として認識され、歴代の領主、為政者から崇敬庇護されていました。江戸時代には社領500石が安堵され社運も隆盛しています。特殊神事:灯籠祭り。
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高田城 |
高田城は江戸時代初期に初代高田藩主松平忠輝(江戸幕府初代将軍徳川家康の6男)によって築かれた城郭です。高田城は平城ながら、大坂の豊臣家と、外様の大大名の加賀藩(石川県金沢市:本城−金沢城)を牽制する為、天下普請で大規模な縄張りが行われました。松平忠輝は徳川家一族の中では冷遇され、元和2年(1616)には改易、伊勢朝熊(三重県伊勢市)、飛騨国高山藩(岐阜県高山市)、高島藩(長野県諏訪市)と流され、最後は高島城で息を引き取っています。高田城は明治以降に廃城となっています。
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