豪農の館(伊藤家・市島家・笹川家など)

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豪農の館(建築):一覧表

写真家名住所所有地概要備考
伊藤文吉邸伊藤文吉邸新潟市江南区沢海1384.7町歩宝暦6年(1756)、初代文吉が独立、天保8年(1837)に名字帯刀、昭和初期に新潟県最大級の豪農になる。敷地面積8千8百坪、屋敷面積1千2百坪、明治時代から昭和初期に建てられた多くの建物が残り、現在は北方文化博物館として一般公開されています。国登録
渡辺邸渡辺邸岩船郡関川村下関約400町歩渡辺家の初代は村上藩に仕える武士で寛文7年(1667)に帰農し当地に土着すると代々大庄屋を歴任する豪農になりました。特に米沢藩上杉家との関係が深く、多くの金銭貸借が行われ寛政10年(1798)には米沢藩の勘定奉行格という士分に取り立てられています。国重文
国名勝
市島邸市島邸新発田市天王1466町歩江戸時代初期に五十公野に土着すると新発田藩主溝口家に従い、領内の新田開発に尽力します。福島潟の干拓事業に着手すると水原に移り越後最大の豪農にまで発展します。現在の建物は戊辰戦争で水原の本邸が焼失後、明治10年(1877)に現在地に再建したものです。県指定
斎藤邸(孝順寺)斎藤実寿邸
(孝順寺)
阿賀野市保田1226町歩斎藤家は当初は百姓代でしたが、その後庄屋となり慶応3年に名字帯刀が許されました。明治時代初期から急速に発展し区長や貴族院議員などを歴任し明治30年代に千町歩に達しました。現在の建物は昭和6年に建てられたもので現在は孝順寺の本堂として利用されています。
笹川邸笹川邸新潟市南区味方約800町歩笹川家は武田家一族の後裔とされ戦国時代に当地に帰農すると江戸時代には村上藩味方組(8カ村)8千石の大庄屋を歴任しました。3千坪の敷地には文政年間に建てられた360坪の主屋の他、数多くの建物が現存し往時の大庄屋屋敷の遺構を見る事が出来ます。国重文
田巻邸(椿寿荘)田巻邸
七郎兵衛家
(椿寿荘)
南蒲原郡田上町1260町歩田巻七郎兵衛家は田巻三郎兵衛家の分家筋にあたり原田巻家と呼ばれていました。江戸時代末期には1千3百町歩を領し名字帯刀が許され4人扶持の士分にも取り立てられました。現在の建物は大正7年に離れ座敷として建てられたもので椿寿荘と名付けられました。町指定
長谷川邸長谷川邸長岡市塚野山202町歩長谷川家は当地域の大庄屋格の庄屋を歴任した家柄で、後年になると塚山村の9割の農家が小作関係だったとされます。明治時代に入ると政治家の輩出や地域開発を尽力し多額の私財を投じています。現在の主屋は享保元年に建てられたもので本陣や問屋も兼ねていました。国重文
目黒邸目黒邸魚沼市須原150町歩目黒家は中世以来の豪族だった家柄で江戸時代に入ると当地の庄屋として新田開発などに尽力しています。明治時代に入ると県議会議員や代議士などを輩出し当地域を代表する豪農となりました。現在の主屋は寛政9年に建てられたもので大変貴重なものとされます。国重文

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豪農という定義はありませんが、一般的に江戸時代であれば農民の中でも庄屋や大庄屋など支配階級で地域内で大きな影響力を持ちました。江戸時代後期になると農村が疲弊し、多くの農民が自分の農地を棄てた為、必然的に支配級層にそれらの農地が集まり飛躍的に所有地が広がりました。又、経済力を背景に地域の特産物や商品の取り扱い、金融、醸造業、林業など幅広く家業を広げの一般的な農民とは異なり名字帯刀や士分の格式を得るものも少なくありませんでした。明治時代に入ると地租改正が行われ金銭による納税が義務付けられれると小規模農家の負担が大きくなり一層豪農に土地が集まる結果となりました。大正13年(1924)、農林省農務局の調査によると50町歩以上所有している者を大地主と定義し新潟県では日本第一位の256戸を数え、1千町歩以上は全国に9戸ありその内5戸は新潟県が占めました。伊藤家(1384.7町歩)、市島家(1466町歩)、斎藤家(1226町歩)、田巻七郎兵衛家(1260町歩)、白勢家(1130町歩)がそれにあたり豪農の中の豪農と言える存在で地域の中でも大きな影響力を持ち政財界などにも進出しました。

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