北国街道: 高田城の城下町

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概要・歴史・観光・見所
高田城の城下町概要: 中世は春日山城を居城とした上杉謙信の本拠となった地域で、景勝が会津(現在の福島県会津若松市)に移封させられると、直江津に城(福嶋城)を移し、さらに慶長19年(1614)に高田城を完成させ松平忠輝が60万石で高田藩を立藩します。その後は城下町と北国街道の宿場町として発展し領内の中心となりました。しかし、地域的に要衝にありながら江戸時代中期までは大名の左遷場所的要素が強く、短期間に次々と藩主が変わる土地柄で安定的な政治が行なわれなかったされ、榊原家が15万石で入るとようやく安定し現在の高田城下の基礎を築きます。現在の高田の町並みは中心街こそ近代化されていますが「雁木」と呼ばれる雪国独自のアーケードをもつ町屋が多く軒を連ね当時の雰囲気を現在に伝えています。

高田城・縄張り: 高田城は輪郭式平城で本丸を中心に二ノ丸が囲い、北東方向と南西方向に三ノ丸が出丸のように配され、南西の三ノ丸のさらに南西には出島がありました。本丸は東西215m、南北228mで藩主の御殿の他、南西隅には天守閣に見立てた三重櫓(御三階)、多聞櫓2棟、櫓台1箇所、御茶屋台1箇所があり二ノ丸との間には東側と南側に枡形の櫓門、北側にも櫓門が設けられていました。二ノ丸には多聞櫓の他、硝煙蔵や、武具蔵、城代屋敷があり、場所のよっては北ノ丸や人質曲輪、卍曲輪、八幡丸などの別称があり北東の三ノ丸には米蔵、南東の三ノ丸には武具蔵が設けれていました。堀は概ね2重でさらに外側に流れる関川と青田川、儀明川が天然の外掘に見立てられたようです。基本的には土塁が中心の城で部分的には石垣が利用されていたと思われますが、築城当初の城主である松平忠輝は60万石(実石は75万石とも)の大大名で、縄張りをしていたのが伊達政宗とも言われている事から、現在に比べて想像も出来ない程に壮大な城郭だったとも考えられます。高田城は寛文5年(1665)の高田地震、寛延4年(1751)の宝暦地震、享和2年(1802)の火災、弘化4年(1847)の善光寺地震で大きな被害を受けましたが、当初の高田城を石高的にも維持出来ず、その都度縮小し現在見られる姿になったとされます。明治3年(1870)の火災により廃城をまたずして多くの建物が焼失しさらに明治41年(1908)に第13師団が高田城の本丸に設置された事で城郭の一部(土塁の切り崩しや水掘の埋め立て)が変更されています。

高田城・城下町: 高田城の外堀の外側は全て武家地で、武家地の北側を新潟方面に奥州街道(所謂東北地方を縦断して五街道に数えられた奥州街道ではなく、新潟方面に通じる脇街道)が、西側の直江津、信州方面に北国街道が通り、各街道沿いは商人町が形成されました。西側の商人町(本町通り)のさらに西側には武家地(下級武士)が南北方向に町割され、そのさらに西側には同じように寺町が形成されていました。寺町は2つの通りがあり、現在でも66カ寺がこの地区に集中し地方の寺町として最大級の規模となっています。又、城の北東にあたる北城町二丁目には鬼門鎮護として北城神明宮が勧請されています。

高田城の城下町:町並み:写真

高田城下(上越市)
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高田城の城下町(上越市):見所・観光
高田城
高田城:上越市
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浄興寺
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医王寺薬師堂
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榊神社
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旧百三十九銀行
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林泉寺
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