出羽街道(鶴岡〜村上)概要: 出羽街道は村上城下(新潟県村上市)と鶴ヶ岡城下(山形県鶴岡市)を結ぶ街道です。参勤交代では利用されていない為、大きな発展はありませんでしたが、江戸時代後期は出羽三山(山形県鶴岡市:山岳霊場として信仰の対象となった。)の参拝者や物資の流通、湯田川温泉(鶴岡市)の湯治客などで利用されました。元禄2年(1689)、松尾芭蕉が「奥の細道」の行脚の際も出羽街道を通過しています。現在でも宿場町には古い町並み、山中には石畳などが残り往時の雰囲気が残されています。
出羽街道が何時頃に整備されたのかは判りませんが、大化4年(648)に現在の新潟県村上市岩船付近に磐舟柵が築造されると、官道である北陸道が磐舟柵まで延長されたと考えられ、さらに和銅元年(708)に現在の山形県庄内地方に出羽柵が築造されると、磐舟柵と出羽柵とを結ぶ出羽街道の前身となる官道が整備されたと思われます。出羽国と越後国の国境付近には「都岐沙羅柵」が設けられたと推定され、出羽街道の木野俣宿はその候補地の1つとなっています。平安時代後期の後三年合戦の際には軍道として利用されたようで、朝廷の勅使や、乱掃討の派遣軍との連絡が行われていたとの伝承が残されています。戦国時代には、政治的、軍事的に不安定となった庄内地方を巡り、山形城(山形県山形市)の城主最上家と、上杉家に従った本庄城(村上城)の城主本庄氏との争いが行われ、特に出羽街道は本庄氏側の軍道として利用されたと思われます。
江戸時代に入ると村上藩(新潟県村上市)の本城である村上城の城下と、庄内藩(山形県鶴岡市)の本城である鶴ヶ岡城を結ぶ街道として改めて整備され、村上藩主村上頼勝は海、岩石、小俣宿、雷に番所が設置されています。庄内藩初代藩主酒井忠勝が初めて御国入りした際にも出羽街道が利用されています。特に参勤交代では利用されず、日本海の沿岸部には羽州浜街道が整備されていましたが、羽州浜街道に比べると難所が少なく、季節によっても影響が受けにくかった事から引き続き多くの人々が利用したようです。元禄2年(1689)には松尾芭蕉が奥之細道で当地を訪れた際には酒田から鼠ヶ関宿(山形県鶴岡市)までは羽州浜街道を利用し、鼠ヶ関宿からは出羽街道に入り、村上城の城下町に至っています。村上城の城下町では松尾芭蕉の門人である曽良が長島藩(三重県桑名市長島町)時代に御世話になったとされる村上藩筆頭家老榊原家の墓参の為に浄念寺(新潟県村上市)を訪れています。
江戸時代後期になると、出羽三山(山形県鶴岡市)の信仰が全国にも広がり、日本海側の参拝者は出羽街道を利用したとされ、村上城の城下の鎮守である西奈弥羽黒神社は戦国時代に本庄氏によって出羽三山の一翼を成す羽黒神社の祭神である羽黒大権現に分霊を勧請したもので、藩主の祈願所の観音寺は、同じく出羽三山の一翼を成す湯殿山神社と関係が深かった事から城下の住民も出羽三山を詣でたと思われます。又、街道沿いの湯田川温泉(山形県鶴岡市)は鶴ヶ岡城の奥座敷とも云われ庄内藩の温泉場が設けられ、出羽街道を通過する旅人や商人、出羽三山の参詣者などから利用され大変栄え、湯野浜温泉(山形県鶴岡市)、温海(あつみ)温泉(山形県鶴岡市)と共に庄内三名湯に数えられました。戊辰戦争の際は、庄内藩は奥羽越列藩同盟の主要藩で、村上藩は逸早く列藩同盟を離脱し新政府側に付いた為、出羽街道沿いでは多くの戦闘が行われ宿場でも兵火により焼失する被害を受けています。
【 出羽街道の見所 】-鶴岡(山形県鶴岡市)は庄内藩の藩庁と藩主居館が設けられた鶴ヶ岡城の城下町として発展した町で、現在でも藩校である致道館や藩主酒井家の菩提寺大督寺などが残されています。又、鶴ヶ岡城と出羽三山、山形城(山形県山形市)を繋ぐ六十里越街道との分岐点でもあり、日本海側から出羽街道を利用した出羽三山の参拝者は鶴ヶ岡城下を利用しています。湯田川宿は出羽街道の宿場町である同時に湯田川温泉と呼ばれる湯治場として発展し、特に鶴岡の奥座敷として藩主酒井家の保養所となっています。湯田川温泉の守護神である由豆佐売神社は平安時代に成立した、三大実録や延喜式神名帳に記載されている古社で、由豆佐売神社の「由豆」は「湯出」に通じるとして温泉神として信仰されたと思われます。小国宿は出羽国と越後国の国境付近に位置し戦国時代には戦略的な要衝として小国城(国指定史跡)が築かれ城下町として発展しました。
江戸時代に入ると庄内藩と村上藩との藩境となり庄内藩の番所が設けられ、人や荷物が改められました。小俣宿は村上藩の番所が置かれた出羽街道の宿場で、戊辰戦争の際には兵火により多くの被害を受け、その後再建された明治時代の町並みが残っています。北黒川宿には大型の旧家が残され、北中宿では松尾芭蕉が宿泊で利用、塩野宿は天領で代官所支配となっています。村上(新潟県村上市)は村上藩の藩庁、藩主居館が設けられた村上城の城下町として発展した町で、町には村上城の城跡や複数の武家屋敷(文化財指定:旧若林家住宅、旧成田家住宅、旧嵩岡家住宅、旧藤井家住宅、旧岩間家住宅)、藩主の菩提寺である光徳寺(村上市指定史跡)、浄念寺(国指定重要文化財)などの史跡が点在しています。
出羽街道のルート
村上城下−猿沢宿−塩野宿−葡萄宿−大沢宿−大毎宿−北中宿−北黒川宿− 荒川宿−中継宿−小俣宿−小名部宿−小国宿−木野俣宿−温海川宿−菅野代宿− 坂野下宿−関根宿−湯田川宿−鶴ヶ岡城下
【 村上宿 】-村上の地は古代、蝦夷地と越の国の国堺に位置していた事から朝廷側の城柵である磐舟柵が築かれました。中世に入ると本庄氏により支配されるようになり、戦国時代に村上城の前身となる本庄城が築かれています。本庄氏は当地域の有力国人領主として発展し、上杉家に従いつつ、その力を背景に山形県の庄内地方にも進出し、大宝寺氏(武藤氏)の勢力を吸収する事に成功しています。慶長3年(1598)、上杉景勝の会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)移封に伴い、本庄氏も当地を離れると、代わって村上頼勝が入封し、地名を村上に改名、城も本庄城から村上城に改められ、近世城郭へと改変されます。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで村上氏は東軍に与した為、本領が安堵され村上藩を立藩、村上城には村上藩の藩庁、藩主居館が整備されました。村上藩は江戸時代初期から江戸時代中期まで藩主が藩期間で交代し、享保5年(1720)に内藤弌信が藩主に就任すると、以後、内藤家が藩主を歴任しています。村上城の城下町は出羽街道の宿場町でもあり、松尾芭蕉も訪れています。又、米沢街道を通じて出羽国の米沢地方とも交流が盛んで村上城の城下町に程近い岩船港は米沢藩の港として繁栄しています。
【 小俣宿 】-小俣宿は出羽街道の宿場町で中継宿と小名部宿の間に位置しています。小俣宿は村上藩と庄内藩との境目に位置していた事から村上藩の番所が設けられ重要視されました。戊辰戦争の際は旧幕府軍で奥羽越列藩同盟に参加した庄内藩が頑強に抵抗した為、当地で新政府側に転じた村上藩などと交戦が繰り広げられ大きな被害を受けています。現在の町並みはその後に再建された明治時代から昭和初期に建てられた古民家が続き落ち着いた雰囲気が感じられます。
【 湯田川宿 】-湯田川宿は出羽街道の宿場町であると同時に庄内地方有数の温泉街として発展した町です。湯田川温泉の開湯の時期は判りませんが、温泉街の守護神である由豆佐売神社は平安時代に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社である事から少なくとも平安時代には温泉場として成立していたと思われます。江戸時代に入ると庄内藩の保養所として整備され庄内三大湯に数えられました。
【 鶴ヶ岡宿 】-鶴ヶ岡の地は中世以来庄内地方の行政の中心だった地域で、鶴ヶ岡城の前身である大宝寺城を居城とした大宝寺氏が長く支配しました。室町時代になると出羽三山の別当職に一族を送り込むなど政教を掌握し出羽国の有力な大名に成長しましたが、戦国時代には隣接する最上氏や安東氏(秋田氏)などと対立した事で衰退し、上杉家の家臣で本庄城(後の村上城)の城主本庄氏から養子を迎えました。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで西軍に与した上杉家が敗北した事により、庄内地方は山形城の城主最上義光の領地となり、義光が数年後に隠居すると大宝寺城を鶴ヶ岡城に改め隠居城として整備しました。しかし、元和8年(1622)に最上家は最上騒動(御家騒動)により改易となり、代わって酒井忠勝が松代城から鶴ヶ岡城に入り庄内藩を立藩します。鶴ヶ岡城には庄内藩の藩庁、藩主居館が設けられ、城下町も藩都に相応しいものに改めて町割りされています。鶴ヶ岡城の城下町には出羽街道の他、外港である加茂港を結ぶ大山街道や、山形城とを結ぶ六十里越街道などが交差する交通の要衝としても発展しました。江戸時代末期の戊辰戦争では庄内藩は奥羽越列藩同盟に参加した為に出羽街道も戦場となりましたが、庄内藩は早くから軍の近世化を図っていた為、鶴ヶ岡城の城下町への侵入は許しませんでした。
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