・黒川館が何時頃築かれたのかは判りませんが、鎌倉時代に黒川氏が自らの居館として築城したと云われています。
黒川氏は平姓三浦氏流和田氏の一族で、和田宗実は平安時代末期に発生した源平合戦において源氏方に加担して軍功を挙げ、さらに文治5年の奥州合戦でも従軍した事で建久3年に越後奥山荘と相模国南深沢郷の地頭に就任しています。
その後、本家の和田家は和田合戦等で没落しましたが、和田時茂系の一族が存続し、和田茂長の子孫が黒川城を本拠地にした事から地名に因み「黒川」姓を掲げました。
その後は越後揚北衆と呼ばれた国人領主の1人として存在感を発揮し、鎌倉時代末期には新田義貞に従い鎌倉幕府の討幕に従軍しています。
領土に隣接している中条氏は同族で、越後和田氏の嫡流でしたが、領土問題が絶えず、度々対立しています。
観応の擾乱では足利尊氏方に与した事から、正平7年には対立した足利直義方に与した上杉憲顕から攻められ、詰城の黒川城に籠ったものの落城し、降伏を受け入れています。
その後は越後国守護職上杉家に従ったものの、応永30年に発生した応永の乱では越後国守護代の長尾邦景に呼応し、守護方の上杉房朝に対して反乱を起し黒川城を拠点として戦いましたが、守護方の上杉頼藤の援軍により形成が逆転し、守護方の滑沢氏から夜襲を受けています。
さらに並槻瓦の戦いで敗北し黒川基実は自刃に追い込まれ、子供である弥福丸(黒川氏実)は出羽大宝寺城の武藤氏を頼り落ち延びています。
その後、氏実は許されて復権したものの再び守護代方に転じた為、応永33年に守護方の中条房資に敗れ降伏しています。
戦国時代には上杉謙信に従いましたが、天正6年に謙信が死去すると、上杉景虎と上杉景勝の間に後継者争い(御館の乱)が勃発し、黒川清実は景虎方に与した為、天正7年、景勝方に攻められ黒川城は落城し降伏しています。
その後は景勝に従い、慶長3年に景勝が会津に移封になると随行した為、黒川館は廃されたと思われます。
黒川館は大蔵神社の南西方向の麓付近に築かれ、概ね東西100m、南北60mの規模があり、周囲を堀と土塁で囲い西側には坪頭館、蔵屋敷館と呼ばれる郭があったとされます。
さらに、南側の胎内川を天然の外堀に見立てていたようですが、本格的な防衛施設は少なく、館から北東方向の比高200程の山に黒川城が築かれ詰城として機能していました。
新潟県:城郭・再生リスト
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