・御館は弘治年間に長尾景虎が景虎を頼って越後に落ち延びた関東管領上杉憲政の為に築いたとされます。
上杉憲政は山内上杉家13代当主上杉憲房の子供として生まれ、幼少時に憲房が死去した事から、養子である上杉憲寛が家督を継ぎましたが、その後、憲政を擁立した家臣団による内乱が発生、勝利して家督を継ぎ関東管領になったものの弱体化が表面化しています。
小田原北条氏の侵攻を憲政治は外交努力によって補い、天文15年には大軍をもって河越城の戦いに臨みましたが、3千人の将兵が討死する大敗を喫し、居城である平井城に引き上げています。
その後も天文16年に武田信玄に小田井原の戦いで大敗を重ねた事で家臣や国人領主達の離反者が続出し天文21年、最前線である御嶽城が落城すると、さらなる離反者が相次ぎ結局、憲政は平井城を撤退し長尾景虎を頼って越後に落ち延びています。
その後、景虎は憲政の養子になった事で「上杉」姓の名跡を継ぎ、関東管領に就任、関東侵攻の大義名分を得ています。
憲政が隠居すると剃髪、法号として光徹を号し、政治、軍事的な活動は基本的に行わなくなったと思われます。
天正6年に上杉謙信が死去すると、その後継を巡り、上杉景虎と上杉景勝が対立した御館の乱が発生、旧山内上杉家の家臣は小田原北条氏と関係が深い者が多く、憲政は小田原北条氏の一族である景虎方に加担したと推察されます。
景勝は逸早く軍事的拠点である春日山城を接収した事もあり、景虎は行政面で謙信が政庁として利用していた御館に入り拠点としました。勢力は両者拮抗し、越後国を二分する内乱となりましたが、その後、隣接する武田勝頼が景勝方に転じた事で、戦局は大きく景勝に傾きました。
天正7年に憲政は景虎の嫡男道満丸と共に和睦交渉の為、春日山城に向かったものの、二人ともそのと衆で襲撃され討ち取られた、又は自刃に追い込まれたとされます。和睦交渉に失敗した景虎は御館を放棄、小田原北条氏を頼り関東に脱出を図りましたが、途中に立寄った鮫ヶ尾城で、城主だった堀江宗親の裏切り等により自刃に追い込まれています。
その後、御館がどうなったのかは不詳ですが資料に出てこない事から破棄されたと推定されています。
御館は東西約120m、南北約150m規模で、5つの郭があり、北側を三重、東西を二重の堀で囲い、南側は御館川が天然の外堀に見立てられていたようです。現在は当時は掘割等を完全に無視した区画整備等により遺構が失われ、主郭の一角が御館公園となっています。
新潟県:城郭・再生リスト
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