宝積院(聖籠町)概要: 聖籠山宝積院観音寺は北蒲原郡聖篭町諏訪山に境内を構えている真言宗智山派の寺院です。宝積院の創建年は不詳ですが、由緒によると天智天皇(第38代天皇・在位:668〜672年)の御代、当地には百合若大臣と呼ばれる名士が居て、「緑丸」と呼ばれる名鷹を大変可愛がり、緑丸も主人に対して尽くしていました。天平9年(737)に泰澄大師(奈良時代の修験道の高僧)が巡錫で当地を訪れた際、上記の話を聞き及ぶと「緑丸」の菩提を弔う為、自ら本尊となる十一面観世音菩薩像と仁王尊像を彫刻し安置したと伝えられています(百合若大臣と「緑丸」の伝説は大分県や壱岐、五島列島、山形県庄内地方、宮城県など多数に伝えられています)。大同元年(806)に旅僧が当地を訪れた際、堂宇を造営し籠った事から聖籠山と呼ばれるようになったとされます。
宝積院は江戸時代に入ると新発田藩の藩主溝口家から祈願所として帰依され、当時は藩庁である新発田城から見ると北東方向(現在の新発田市大手町五丁目)に境内を構えていた事から新発田城の鬼門鎮護として信仰の対象となりました。慶長13年(1608)には初代藩主溝口秀勝が観音堂と二王門が再建されています。7代藩主溝口直温も篤く信仰し宝暦6年(1756)に観音堂と二王門を造営し、自ら製作した宝剣、自ら描いた大元帥、大日如来、青不動、天神の図、鶴の図、自らが筆した五部秘経、観世音縁起、五部秘経を納める為に制作された宝篋印塔などが奉納されており、その多くが文化財指定を受けています(10代藩主溝口直諒は自から描いた天神の図を奉納)。宝積院は明治時代初期の廃藩置県により新発田藩が廃藩となり藩主である溝口家が当地を去った為、庇護者を失い諏訪山観音寺へ合寺となっています。
宝積院観音堂は宝暦6年(1756)に造営されたもので、木造平屋建て入母屋、鉄板葺き、妻入り、間口3間、奥行き4間、正面1間軒唐破風向拝付き、外壁は真壁造り板張り、四方高欄、浜縁、向拝には獅子や龍、象、鳳凰などの精緻な彫刻、内部には十一面観世音菩薩像が安置されています。宝積院二王門は宝暦6年(1756)に造営されたもので、切妻、銅板葺き、三間一戸、桁行3間、梁間2間、外壁は真壁造り板張り、左右には仁王尊像が安置されています。宝積院観音堂、二王門は江戸時代中期の寺院建築の遺構として貴重な事から聖籠町指定文化財に指定されています。
越後三十三観音霊場第29番札所(札所本尊:十一面観世音菩薩・御詠歌:ふだらくや 名立の浦と きくときは うしおの音も みのりなりけり)。蒲原三十三観音霊場第27番札所。山号:聖籠山。院号:宝積院。寺号:観音寺。宗派:真言宗智山派。本尊:十一面観世音菩薩。
八脚門を簡単に説明した動画
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