妙見宿

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妙見宿:略データ
・場 所・新潟県長岡市妙見町
・概 要・妙見の地名の由来については諸説あり、一説には当地には大和王権の大王家の直営農地と考えられる「屯倉=ミヤケ」が転じて「三宅」と呼ばれ、その後「妙見」に転じたとも云われています。

宿場の端に鎮座している三宅神社は延喜式神名帳に式内社として記載されている三宅神社の論社で、当地が早くから開発されていた事が窺えます。

一方、「妙」は動詞の「メゲル」つまり「壊れる、損なう」という意味でもあり、かつて、当地で大規模な崩落や崩壊が起こった栃だった事を示す地名という説があり、実際、中越地震でも崖崩れが発生し、奇しくも証明されています。

中世に入ると、周囲に会水城や中潟城が築かれ、集落内には城主の居館となる妙見館が設けられています。

会水城には上杉憲顕の家臣である石坂家が配され、代々居城として利用し、城下町には菩提寺である安浄寺をはじめ善行寺や法蔵寺、祈願所となった来宝院、尺泉寺等が集められ栄えたそうです。

しかし、天文21年に城主である石坂与十郎が上杉謙信に対して謀反を働いた為、粛清され討死、合水城には上杉家の家臣高津主膳が配されています。

慶長3年に上杉景勝が会津に移封になると高津家も随行した為、会水城も廃城となり妙見館も廃されたと思われます。

江戸時代に入り三国街道が開削されると宿場町として整備されるものの、規模が小さく、隣接する六日市宿とは合宿でした。

享保7年には長岡藩により経済統制と警備を目的とした津留番所が設けられ、特に米や大豆、銭、錦等8品目が厳重に管理されていました。

妙見宿南側の高台に鎮座している妙見神社は北極星の本地仏である妙見菩薩を奉斎していた神社で、境内に設けられた石燈籠は信濃川舟運の灯台の役割を果たし、住民や舟運関係者から信仰の対象となり絵馬等が複数奉納されています。

戊辰戦争(北越戦争)では榎峠で、長岡藩と新政府軍が激突し激しい戦いが繰り広げられました。

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