・関中島宿は三国街道の宿場町として整備された町で、冬場は北国街道の弥彦宿と寺泊宿との中間に位置していた事から臨時の継立場が設けられ、間宿のような役割を持ちました。
宿場の入口付近に設けられた十王堂は一種の結界神のような役割を担っていたと考えられ、周囲には住民達の墓碑が建立されている事からも、宿場の聖域のような所だった事が窺えます。
現在の十王堂は延宝年間に修造された建物で、宝永3年に浄財を募り、諸仏を京都で購入し、翌年に納めたとされます。
修造した際に棟梁は矢作村出身の高島権助で、揚額者は中島村庄屋の斎藤源右衛門である事から、源右衛門が十王堂修造に経済的な援助した事が判ります。
斎藤源右衛門は廻船問屋としても多くの富を有していた人物で、さらに、文化的な教養人として和歌や俳諧にも精通し、名僧で知られた良寛和尚とも交流があり、良寛に百合根等を送った事もあります。
斎藤源右衛門の邸宅は文化14年に原田鵲斎が譲り受け、真木山から移り住んだ建物で、鵲斎は医者でありながら文化にも精通し、良寛和尚とも親交があり、酒を酌み交わす仲でもありました。
又、十王堂が修造した前後に、国上寺中興二世の良長の客僧となった、萬元上人が一時、中島に住んでいたとの伝承がある事から、萬元上人が修造に関わったとの説があります。
街道沿いにある大蓮寺は永享10年に薦貞和尚が開創した浄土宗の寺院です。
薦貞和尚は、元々弥彦山の麓にある黒滝城の城主に仕える武士でしたが、城が落城した為、流浪の末、信濃国上水内郡長沼村西厳寺で出家し、その後、弘法大師空海が彫刻したと伝わる阿弥陀仏の仏像を携え、越後国に戻り草庵を設けたと伝えられています。
四世三潮の代で正式な寺院として認められ興山大蓮寺を号しました。
又、良寛和尚所謂の寺院でもあり、良寛が中島村に托鉢で訪れた際には、当寺に立寄り、住職の奥方から貰った毛鞠3個を大切にした事を手紙にしたためています。
三国街道:宿場町・再生リスト
|