関興寺(南魚沼市)概要: 最上山関興寺は新潟県南魚沼市上野に境内を構えている臨済宗円覚寺派の寺院です。関興寺の創建は応永17年(1410)に覚翁祖伝和尚によって開かれたのが始まりと伝えられています。覚翁は関東管領であった上杉憲顕の子供で白崖宝生和尚に師事していた事から開山者は白崖宝生和尚を立て自らは次席となっています。
その後、関興寺は関東管領縁の寺院として上杉家や長尾家が庇護し永享8年(1436)には寺領120貫文、山林一里余が寄進され長尾房景や上杉房定などは堂宇の改修を行っています。往時の関興寺は寺運が隆盛し周辺5カ国に300余の末寺を擁し甲信越地方の臨済宗の中心的な寺院として大きな影響力がありました。
天正6年(1578)に上杉謙信が死去すると上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(北条氏康の子息)との後継ぎ争いが激化し俗に言う"御館の乱"が勃発、関興寺は景勝側に与しますが、兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失しました。その際、当時の住職、雨天是鑑和尚は上杉家から寄進された大般若経六百巻を味噌桶中に隠し兵火より護った故事から、火難から大般若経を護った味噌、この味噌をいただくと福徳が授かるとの噂が広がり関興寺の参拝者は「関興寺のみそなめたか」といいはやされるようになりました(同市の雲洞庵は「雲洞庵の土踏んだか」と詠われ対の関係とも言えます)。
天正14年(1586)に景勝の尽力により堂宇が再建、関興寺の境内も整備されますが文禄3年(1594)に再び焼失、さらに慶長3年(1598)、景勝が春日山城(新潟県上越市)から会津の鶴ヶ城(福島県会津若松市)に移封した事で庇護者を失い衰微します。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで景勝は西軍に与した為、出羽の米沢城(山形県米沢市)に減封となり、衰退した関興寺も景勝を頼り米沢に移り城下町に関興庵を創建しています。寛永6年(1629)に再び火災で焼失すると、それを期に再び越後に留まっていた末寺嘉祥庵に萬源和尚(後の建長寺185世住持)を招いて関興寺を再興しています(引き続き米沢城の城下の関興庵も存続し上杉家執政を担った直江兼続の生家である樋口家の菩提寺となっています)。
その後は幕府の庇護もあり寺運も隆盛し10万石の格式得ると当地域の臨済宗の一大禅道場として3百人余の僧が修行に明け暮れました。
現在の関興寺本堂は寛永5年(1776)に再建されたもので、入母屋、銅板葺、平入、桁行11間、右端には唐破風の玄関が設けられています。山門は江戸時代中期に建てられたもので、切妻、一間一戸、四脚門、関興寺境内最古の建物として貴重な存在です。経蔵は江戸時代後期の寛政10年(1798)に建てられたもので、土造平屋建て、宝形造り、銅板葺き、外壁は白漆喰仕上げ(腰壁部は下見板張り覆い)、内部には六角輪蔵が設置されています。
山号:最上山。宗派:臨済宗円覚寺派。本尊:釈迦牟尼仏。大本山円覚寺百観音霊場第51番札所。魚沼三十三観音霊場第21番札所。
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