新発田市(寺町)・町並み

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新発田城(寺町)・町並み
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【 新発田城 】新発田城は中世、長く当地を支配した新発田氏の居城として築かれた平城です。天正9年(1581)に「御舘の乱」の恩賞を巡り「新発田重家の乱」が起こると度々戦場となり当初は重家が版図を広げるなど善戦しましたが、天正15年(1587)に新発田城が落城し重家は自刃に至っています。慶長2年(1597)に上杉景勝が会津黒川城(福島県会津若松市)に移封になり、それに伴い溝口秀勝が入封すると新発田城と城下町の大改修、拡張が行われ、現在の新発田市の基礎となっています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで秀勝は東軍に属した為、引き続き領地が安堵され新発田藩を立藩し、当地は藩都として発展しました。明治時代に新発田藩が廃藩になると新発田城も廃城となり、本丸周辺は軍の施設となりましたが、現在でも本丸表門と二の丸隅櫓が残され国指定重要文化財に指定されています。日本100名城。

【寺町】−寺町は藩主の参勤交代で利用する越後街道沿いに町割された町で、各寺院は広い境内を有し、墓石が防塁に利用出来る事から城下町の防衛線として想定されていました。現在でも「寺町通り」周辺には14ヵ寺(福勝寺、相円寺、託明寺、宝光寺、瑞雲寺、真称寺、蓮昌寺、法華寺など)が境内を構えています。

福勝寺(曹洞宗)は応永元年(1394)に雲洞庵3世悦叟和尚が開山、戦国時代には領主である新発田重家の帰依を受け、慶長2年(1597)に重家の宿敵である上杉景勝が会津黒川城(福島県会津若松市)に移封になり、新たに新発田城の城主となった溝口秀勝は重家の菩提寺と定めて墓碑と霊廟を建立しています。

相円寺(曹洞宗)は天文11年(1542)に福勝寺5世鳳質伊察大和尚が開山。

託明寺(真宗大谷派)は鎌倉時代初期に祐玄房により開山した寺院です。当初は法相宗の寺院で越前国坂北郡新江に境内を構えていましたが、承元元年(1207)に親鸞に帰依した事で浄土真宗に改宗しています。その後、尾張国中島郡溝口村に移り、天正3年(1575)に溝口勝政の菩提寺となり、溝口秀勝と共に大聖寺(石川県加賀市)、新発田に随行しています。

三光寺(浄土宗)は天正10年(1582)に開かれた寺院で、江戸時代には新発田藩内の浄土宗の寺院としては唯一徳川将軍家の家紋である三つ葉葵を寺紋として掲げる事が許されています。

宝光寺(曹洞宗)は天正11年(1583)に溝口秀勝が諦応寺の雪崗全林を招いて創建、雪堂元初大和尚を勧請開山とした寺院で、秀勝と共に新発田城に随行し、歴代溝口家の菩提寺となっています。江戸時代は藩内の曹洞宗寺院を束ねる格式を持ち、2重楼門や経堂など藩内随一の伽藍配置を誇りました。境内には溝口家歴代の墓碑が建立され新発田市指定史跡に指定されています。

瑞雲寺(曹洞宗)は慶長元年(1596)に溝口秀勝の室が開基となり創建した寺院です。当初は大聖寺(石川県加賀市)に境内を構え玉窓庵と称していましたが、秀勝の新発田城移封に伴い五十公野に移り、元禄5年(1692)に現在地に遷っています。寛永11年(1634)に室が死去すると菩提寺となっています。

真称寺(浄土真宗本願寺派)は仁安3年(1168)に創建された寺院です。当初は信濃国高井郡に境内を構え真言宗でしたが、その後、浄土真宗に改宗し新発田城の三之丸の地に移りました。溝口秀勝が新発田城を大改修した際に現在に遷されました。

蓮昌寺(日蓮宗)は正和2年(1313)に印源が創建し、師である日印聖人を勧請開山とした寺院です。当初は角田浜に境内を構えていましたが貞和5年(1349)に現在地付近に移りました。江戸時代に入ると新発田藩主溝口家の帰依を受け、境内には5代、6代藩主の生母の墓碑が建立されています。

法華寺(日蓮宗)は慶長3年(1598)に日覚聖人により開山した寺院です。日覚聖人の養父である坂井秀政が溝口秀勝の家臣になった為、秀勝が新発田城に移封になった際に当地に移ってきています。

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