有間川宿

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有間川宿:略データ
・場 所・新潟県上越市有間川
・概 要・有間川村の集落的な発生起源は判りませんが、近江国速水氏出身で室町時代の禅僧、歌人である万里集九が長享2年に当地を訪れており「長享二年十月十七日雲中自有間河村能生、村名有台寺太平寺、日既及昏黒不能到、故借東崎沙戸一宿有間河至能生凡六十里」と著書「梅花無盡蔵」に記されています。

有間川の記録的初見はこれが始めてであり、室町時代には能生村と共に街道の主要な集落だった事が窺えます。

又、万里集九は「民宿隣海有間河。打岩巻四千丈波。欲渡時々驢不進。風声吹破伴僧蓑。」との七言絶句を残しており、当時の有間川の様子が歌われています。

万里は江戸の太田道灌に庇護を受けていたものの、道灌が死去した事もあり、妻子と従僧2人っを連れ立って、故郷である美濃に帰還する際、越中府中で越後国守護上杉常泰を訪ね、約1ヵ月程滞在した後の11月中程、寒さも厳しくなる中、有間川を経て能生に至っています。

上記の太平寺は能生に鎮座している能生白山神社の別当寺院の事で太平寺では約5ヵ月程滞在しています。

江戸時代に入り北国街道が開削されると宿場町に指定され、有間川の海岸沿いには参勤交代で北国街道を利用した加賀藩主前田家の命により松並木が整備されています。

概ね高田藩に属し、宝暦岩年に発生した高田地震では背後の山で堰き止められた泥水が土石流となって宿場を襲い、宿場は川のように水没し、元々の川筋は埋まって山のようになったと記されています。

当時のあった家屋30軒程は全て流され、人口284人の内、45人が即死する壊滅的な被害を受けています。

宿場町といっても規模は大きくなく、漁業を生業とする住民が多かったと見られ、鎮守である諏訪神社に大正8年に奉納された舟絵馬は貴重な事から上越市指定文化財に指定されています。

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