・青海の地は姫川と青海河の下流に位置し、両河川の上流域と、姫川の支流である小滝川の中流域が翡翠の山地だった事から古代の先進性の高い地域だったとされ、寺池遺跡では玉造工房跡とみられる竪穴住居跡6基と巨大な木柱を伴う特異な配石遺構が発見されています。
翡翠と関係が深く、古事記等の日本神話に東条する沼河比売所縁の地でもあり、黒姫山の東山麓にある「福来口」と呼ばれる大鍾乳洞が沼河比売の居城地だったとされ、山頂には姫を祀る祠が設けられ例祭の4月24日には信者が大勢登拝するそうです。
古代の官道である北陸路が開削されると当地には滄海駅が設置され、当地が難所である親不知、子不知を控えていた事から、他の駅家では馬の数が五疋だったにもかかわらず滄海駅では三疋多い八疋に定められています。
滄海駅の場所は須沢角地遺跡が最有力候補で、遺跡からは存在を示唆する決定的な遺物は発見されなかったものの、一大集落があった事が証明されています。
当地は久比岐国(郡)に属し、国造である青海首の一族が祖神である椎根津彦命の御霊を勧請し青海神社を開創、延長5年に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載されています。
中世に入ると鎌倉幕府執権北条氏の一族である名越氏が越後国沼河郷の地頭として当地に赴任していたと見られ、山岸遺跡が居館跡と目され、家紋と思われる傘紋が施された遺物が発見されています。
江戸時代に入り北国街道が開削されると宿場町に指定され、本陣は有力者だった清水家が担っています。
青海宿は北国街道と千国街道(松本街道)の分岐点でもあり、文政9年に当地を訪れた、十辺舎一九は「あをみのしゆくひめ川というかちわたりの大川あり。このしゆくより、しんしうまつもとへ道あり。ねづごへといふ。」と記しています。
北国街道:宿場町・再生リスト
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