・能生は古事記等の神話で記されている奴奈川姫命所縁の智として知られ、伝承によると、大沢嶽を源流とする島道川の川沿いにある大きな巌窟は奴奈川姫命の産所と伝わる地とされ、さらに、その巌窟は奴奈川姫命の館で、大己貴命が神山道にあった道を通って訪ねたと伝えられています。
そのような中、当地には奴奈川姫命と伊佐奈岐命、大己貴命を奉斎する社が開創され、元正天皇の御代に泰澄大師が白山信仰の拠点として整備し社号を「白山権現」に改めたとされます。
その後、能生白山神社は神仏習合し別当寺院だった能生山泰平寺宝光院は境内に七堂伽藍が整備され、末社75社、坊舎50余坊を擁する大寺院となり、当地はその門前町として発展したと思われます。
江戸時代に入り北国街道が開削されると宿場町に指定され本陣は有力者だった村上家、その後は大嶋家がその職を担っています。
当初は高田藩に属してしましたが、その後、天領となり、さらには糸魚川藩の支配となっています。
又、能生川舟運の拠点でもあり、川沿いの集落や山地から年貢米や農産物、特産物が集められた集積地として重要視され、5と10の付く日は六歳市が開催され大いに賑わいました。
元禄2年には松尾芭蕉と曾良一行も奥の細道の行脚で当地を訪れており、7月11日に高田城下を出立した後に五智国分寺と居多神社を参拝し、当初は名立宿で宿泊する予定だったものの、能生宿まで足を延ばし、玉屋五良兵衛方に宿泊しています。
宿場内に境内を構えている光明院は能生白山神社の別当寺院だった能生山泰平寺の塔頭だった寺院で、明治時代初頭に発令された神仏分離令により泰平寺の僧侶達の多くが服飾し白山神社の神官となった為、当寺が仏像や仏具を引き継ぐ形で明治3年に再興しています。
本尊の十一面観世音菩薩立像は江戸時代初期に制作されたもので糸魚川市指定文化財に指定されています。
北国街道:宿場町・再生リスト
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