妙高堂(関山神社・妙高市)概要: 妙高堂の創建は不詳ですが和銅元年(706)、裸行上人によって勧請された関山神社の奥の院とされ、元々は妙高山山頂(標高2454m)に鎮座していました。
妙高山は古くから山岳信仰の霊山として広く信仰され、寿永元年(1182)には木曽義仲が自らの守り本尊である阿弥陀如来像(伝:当時製作された善光寺仏11体の1体)を妙高山山頂に奉納し戦勝祈願し見事勝利しました。義仲は感謝の意から家臣である五位野与左ェ門に4年毎に堂宇の建替造営を命じ、義仲死後もその後裔によって引き継がれ明治時代初頭に神仏分離令が発令されるまで続けられました。
又、戦国時代には上杉謙信(春日山城の城主)も篤く帰依し出陣の折に妙高山山頂へ登り妙高堂に籠り戦勝祈願をしたとされ、その後は南方山講が名代として参拝し謙信死後である現在も引き継がれ行われています。妙高堂は明治時代初頭に発令された神仏分離令後に山頂から現在地である関山神社境内に移されましたが明治28年(1895)に火災により焼失、大正15年(1926)に再建しています。
本尊である妙高三尊阿弥陀如来像(善光寺式)は鎌倉時代末期に製作されたもので、当初は山頂に祀られていましたが明治2年(1869)に現在地である妙高堂に移されました。中尊である阿弥陀如来像(銅製、像高58.2cm)は昭和53年(1978)新潟県重要文化財に、脇侍である勢至菩薩像(銅製、像高41.0cm)、観世音菩薩像(銅製、像高41.1cm)は昭和50年(1975)妙高市指定文化財にそれぞれ指定されています。
又、境内には"生けこみ"式石仏群(胸から下を地中に埋め込んでいるものなど35躯、暗灰色の凝灰岩製)は平安時代に製作された北陸地方を代表する石仏で妙高山信仰の様子を伝える貴重な石造遺品である事から昭和55年(1980)に新潟県重要文化財に指定されています。
妙高堂:上空画像
|