妙高市(歴史)概要: 妙高市は古くから開けていた地域とされ斐太遺跡からは多くの住居跡や環濠跡などが見つかり、隣接するように多数の古墳群が存在しています。又、延喜式神名帳に記載されているとされる斐太神社や関山神社があり中央との繋がりを感じさせます。
中世に入ると上杉家に従属してた堀江氏が支配し、居城である鮫ヶ尾城は北国街道からの敵の侵入を防ぐ春日山城(上越市)直近の支城として重要視され、この地方としては最大級の規模の城郭として名を馳せていました。
天正6年(1578)に上杉謙信が死去すると上杉景虎と景勝の2人の養子の後継ぎ争いが激化、"御館の乱"が起こります。天正7年2月になると景勝の攻勢が強まり、景虎は一端実家である北条氏を頼り再起を図り関東へ退却しようと鮫ヶ尾城へ入城しますが当時の城主堀江宗親はすでに景勝側の安田氏に内通していた為、非業の死を迎えます。
江戸時代に入ると現在の妙高市の中心である新井は北国街道と長野県の飯山市とを結ぶ飯山街道の交差する交通の要所として発展しました。現在でも旧街道沿いには古い町屋や東本願寺新井別院や康源寺、賀茂神社などといった社寺仏閣が点在し当時の雰囲気を垣間見る事が出来ます。
同様に関山地区は大きな宿場町ではありませんでしたが、温泉を引いてた宿があるなど特徴ある宿場町でした。妙高山山岳信仰の中心だった関山神社やその別当である宝蔵院があった事で妙高山詣での信者達が宿場を利用しました。現在は温泉宿や宝蔵院が無くなり宿場町の雰囲気も失われていますが、関山神社が現存していて境内や社殿から当時の繁栄ぶりが感じられます。
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