・柏崎陣屋は享保2年に白河藩主松平越中守定賢によって築かれたました。
定賢は陸奥守山藩の藩主松平頼貞の6男として生まれたましたが、享保11年に高田藩4代藩主松平定儀の養子となり、享保12年に定儀の死去に伴い高田藩主に就任しました。
当地は元々高田藩領でしたが、寛保元年に定賢が白河藩に移封になると、そのまま白河藩が引き継ぐ形となり飛地となっています。
高田藩時代には扇町に陣屋を構え柏崎を中心とする221ヵ村を支配していましたが、刷新する形で大久保に新たな陣屋を設け支配所を遷しています。
文政6年に白河藩4代藩主松平定永が桑名藩に移封になると、引き続き当地の支配が任されています。定永は桑名藩移封の費用や江戸上屋敷の火災、幕府から命じられたお手伝い普請等で出費が重なり、藩の財政は逼迫、藩士の知行を削減したものの大きな借財を抱え領民も疲弊しています。
天保8年、国学者生田万が困窮した越後の農民救済の為、5人の同士と共に越後国桑名藩領荒浜村の庄屋を襲撃し、そこで得た金品を村人に分け与える所謂「生田万の乱」が発生、さらに万は同士を募り計14人で柏崎陣屋を襲撃しています。乱は長岡藩から出兵した兵により鎮圧されましたが、苦労が絶えず天保9年に定永は死去しています。
戊辰戦争の際、藩主である松平定敬は鳥羽伏見の戦い後に千政府軍に恭順の意を示し、柏崎陣屋に撤去、謹慎したものの、その後主戦強硬派に同調し、鯨波戦争を経て会津藩ぬ入り実兄である松平容保と合流しています。一方、柏崎陣屋に残された家臣達は新政府軍の侵攻により降伏しています。
明治2年に柏崎県が立県すると陣屋は樫沢喜県庁舎として利用されましたが、明治6年に新潟県に編入され、柏崎県が廃止になると庁舎も廃されています。
柏崎陣屋は東西100間、南北50間、面積5千坪、砂丘上の地形に2〜3段に造成し周囲を土塁と塀で囲い、敷地内には御役所、預役所、諸役所、長屋等が整備されました。多くの遺構は失われましたが、裏門が善照寺の山門として移築されています。柏原陣屋の跡地は貴重な事から柏崎市指定史跡に指定されています。
新潟県:城郭・再生リスト
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