・香積寺の境内周辺は鵜川の柏の大樹の東北地に当り、柏崎勝長が居館を構えた地と云われています。
柏崎勝長は鎌倉時代に当地を初めて治めた豪族で、とある案件で訴訟する事になり息子の花若と、家臣である小太郎を連れ立って鎌倉に赴きました。
しかし、勝長は鎌倉に滞在中に風をこじらせ、看病したものの空しく病死し帰らぬ人になってしまいました。父親との別れを酷く悲しんだ花若は悲痛な心に耐えきれず出家して鎌倉を離れ行方知れずとなりました。残された小太郎は花若が残した文に従い、勝長と花若の遺品をまとめ故郷の柏崎に急ぎ帰る事になりました。
柏崎に戻った小太郎は急いで勝長の奥方に事の顛末を話すと、奥方は余りの衝撃により錯乱状態に陥り、狂乱のまま花若を探す為に柏崎を後にしました。
それから幾年を重ね、奥方が信州善光寺に辿り着き、夫の供養と息子花若逢いたいと祈願すると、偶然に花若が善光寺で修行していた事から奇跡の再会を果たす事が出来たとされます。その後、奥方は柏崎に戻り、勝長の遺言に従い、居館跡を菩提寺である香積寺に与え、自ら出家し尼になると生涯、勝長の供養を行ったとされます。
以上の事は室町時代に成立した「歌謡」の「柏崎」の概要で、当地がその舞台となっています。
香積寺の境内には勝長親子3人の墓や石碑、秋葉神社等が残され、貴重な事から柏崎市指定史跡に指定されています。
江戸時代中期になると当地は高田藩領に組み込まれ、その管理は扇町陣屋で行われていましたが、元禄16年に当地に島町陣屋が設けられ、その機能が遷されています。しかし、正徳5年に旧地である扇町陣屋に戻されています。
島町陣屋が機能していた期間は大変短った事もあり、その規模や施設の内容、移転理由等もよく判っておらず、明確な遺構も残されておりません。
新潟県:城郭・再生リスト
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