・岡塚館が何時頃に築城されたのかは不詳ですが、「竹俣氏系図」に記されている応永20年に三光村に築いたという城郭が岡塚館の事と推定されています。
伝承によると、竹俣家の祖である佐々木盛綱の孫の倉田義綱の5代後裔の加地季綱が応永20年頃に居館の北楯館に二俣の竹があり、新たに築城した岡塚館にも二俣の竹があった事から、この奇跡的な現象を吉祥の御告げと悟り姓を「竹俣」に改めたと伝えられています。
その後は独立した国人領主として台頭し、揚北衆の一つとして数えられました。
永正4年、越後国守護職の上杉房能と守護代の長尾為景との対立が激化し「永正の乱」が発生すると、当時の城主と思われる竹俣清綱は、宇佐美房忠、色部昌長、本庄時長等と共に、上杉房能に味方しました。
為景は房能の従兄弟で、養子とされる上杉定実を擁立し、房能を急襲すると房能は戦線を維持出来なく、実兄で関東管領である上杉顕定を頼り、関東に落ち延びる途中、天水越(新潟県十日町市)で、顕定の家臣である丸山信澄と合流するものの為景の執拗な追撃戦に敗れ自刃に追い込まれています。
清綱は房能が自刃した後も、為景方と戦いを継続し、城を包囲されています。
永正5年、清綱は岩谷城(竹俣城)に入り、籠城戦を展開、合戦は数日間に及んだものの、清綱の必死の抵抗により堅守した為、為景方は侵攻を諦め三条嶋城に撤退、その後、和睦が成立しています。
清綱は岩谷城(竹俣城)から亥の方角の山頂に敵水城、領内の舟越に新城を築城し居城を岡塚館から遷しています。
その後、岡塚館がどの様に利用されたのかは判りませんが、豊臣秀吉の命により慶長3年に上杉景勝が会津に移封となり、竹俣氏もそれに従い、当地を離れた事から廃城になったと思われます。
岡塚館は三光川と姫田川に挟まれた微高地に築かれた平城で、さらに南と北側にはその支流が天然の外堀として見立られていたようです。
規模は東西役200m、南北役110m程で、城内は主郭を中心として、東西南北と4つの郭に囲われ、南の郭が二之廓で、西の廓が三之廓だったようです。
主郭は東西約60m、南北約50m程で、他の郭より、一段高い所に位置し、周囲を土塁と空堀で囲っていました。
特に西の郭と東の郭の間には二重の堀と土塁で遮断し、北の郭には大手門が設けられたと思われ、虎口の跡が見られます。
現在は大部分が畑地と宅地となっていますが、土塁や堀の一部を確認する事が出来ます。
新潟県:城郭・再生リスト
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