松之山街道(高田〜塩沢宿)

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松之山街道(高田城〜塩沢宿)
【松之山街道】−松之山街道は高田藩の藩庁、藩主居館が置かれた高田城の城下町(北国街道の宿場町)から三国街道の塩沢宿を結ぶ街道です。経路は高田城下(上越市)から北国を分岐して法定寺、横住、安塚、細野峠、大島宿、小豆峠、木和田原、蒲生宿、松代宿、犬伏宿、十日町宿、栃窪峠を経て塩沢宿(南魚沼市)に至る約19里余(約76キロ)の街道で、建武4年(1337)に松山保の地頭として赴任してきた仁木義有の資料によると既に松之山街道の前身となる古道が存在していた事が窺えます。戦国時代に入ると春日山城を居城としていた上杉謙信が関東地方に侵攻する軍用道として整備を進め、実に関東へは14回も侵攻しその都度重要な役割を持ちました。江戸時代に入ると高田藩の藩都である高田城下と、領内である魚沼地方を結ぶ事は行政的な運用面や経済活動の円滑にする上でも重要だった事から引き続き管理されました。現在でも安塚区内には当時に整備された石畳などの遺構が残され十日町市菅刈〜薬師峠間が平成8年(1996)「歴史の道百選選」に選定されています。

【高田城】−高田城は慶長19年(1614)、高田藩初代藩主松平忠輝によって築城された城郭です。松平忠輝は徳川家康の6男で60万石の大大名だった人物で、大坂の豊臣秀頼の牽制や加賀藩100万石の前田家が裏切った場合に備え、高田城は天下普請で大城郭が求められました。松平家が移封後は中々藩主が定まりませんでしたが、当地方の中心として明治維新まで機能しています。城下町の街道沿いには商人が集められ、現在でも雁木と呼ばれる個人が設けたアーケードを有した町屋建築が数多く軒を連ねています。

【川浦陣屋】川浦陣屋は松之山街道沿いに設けられた幕府の代官所で寛保元年(1741)に榊原政永が高田藩に入封に伴い、寛保2年(1742)に幕府によって築かれました。支配地は当初は5万石程度でしたが安永4年(1775)には8万2千石、寛政7年(1795)には6万9千石と変動しています。街道沿いには民家が集められ小城下町となっていたようです。

【二ツ城】−松之山街道を押える為に築かれた戦略な城郭で、標高265mの丘陵の頂上に本丸を設けた中世の山城です。

【直峰城】−直峰城は南北朝時代に南朝方の武将として知られた風間信濃守信昭によって築かれたと推定されています。標高344m山頂に築かれた典型的な山城で、現在でも郭の形状や空堀、土塁などの遺構が良好に残されています。戦国時代には上杉家の本城である春日山城の支城として重要視され松之山街道を押える上でも戦略的にも貴重な存在でした。上杉景勝時代には上杉家執政の直江兼続の父親が城主として配され重要性が窺えます。

【犬伏城】−犬伏城の築城年は不詳ですが戦国時代の永正4年(1507)に城主清水采女正が加担していた越後守護上杉房能が越後守護代長尾為景の下克上により家臣共々自刃に追い込まれ、その中の1人だったとされます。上杉謙信が関東地方に大規模な軍事行動を起すようになると松之山街道沿いにあった事から重要視され特に宿泊所として利用されていたようです。江戸時代に入ると犬伏城は廃城となりましたが城下町は松之山街道の宿場町、犬伏宿として整備され存続しました。

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