清水峠越往還(沼田〜六日町宿)

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清水峠越往還(沼田城〜六日町宿)
【清水峠越往還】−清水峠越往還は沼田城の城下町(群馬県沼田市)と三国街道六日町宿(新潟県南魚沼市)を結ぶ脇往還で、越後(新潟県)と上州(群馬県)を最短距離で結ぶ事から、戦国時代には春日山城(新潟県上越市)を居城としていた上杉謙信が関東侵攻の際には軍事利用されました。江戸時代に入り、三国街道が正式に開削し宿場町も整備されると、両街道が同時に存在すると問題が多い為、清水峠越往還は形式上は廃止となります。明治時代に入ると、街道制度が廃止となり、改めて最短距離で、難所が少ない清水峠越往還が注視され、明治18年(1885)ぶ当時としては最先端な馬車の通行可能な幅員と土木技術が導入され新道(国道)が開削されました。しかし、天候に大きく左右される道で度々通行止めになるなど問題が発生した為、新たに井坪坂を経路とする新道が開削され次第に利用者が減りました。その後、管理や修復などの費用が嵩む割に利用者がいない事から廃道となっています。

【沼田城】−室町時代に周辺を支配した国人領主、沼田氏によって築かれた城で、主要街道は通過しなかったものの、沼田を拠点に四方に幾つもの街道が延びる交通の要衝だった事から、戦国時代には上杉家、沼田家、真田家、徳川家、北条家、武田家が沼田城の所属を巡り攻防戦が何度も行われています。天正18年(1590)の小田原の陣で北条氏が滅亡すると、戦功があった真田家の支配となり、明暦4年(1658)に真田信直により正式に沼田藩が立藩、しかし、本家の松代真田家の確執から無理な藩政を行い延宝8年(1680)に改易となり真田家支配が終焉しました。その後は本多家、黒田家、土岐家が沼田藩主を歴任しています。

【六日町宿】−六日町は戦国時代、上田長尾家の当主、長尾政景(米沢藩初代藩主上杉景勝の実父)の居城、坂戸城の城下町として整備された町で縁のある雲洞庵などの史跡が点在しています。江戸時代に入ると三国街道と清水峠越往還(清水街道)が分岐する交通の要衝として発展し、特に魚野川舟運の最上流の川湊町でもあった為、多くの物資が六日町宿に集積され経済的にも周辺の中心地となりました(三国街道を参勤交代で復路に利用する場合、六日町宿から長岡城下まで船で下った)。宿場内には本陣、脇本陣、問屋だけでなく行政機関や船会所なども設置され行政的にも重要視されました。現在でも南魚沼市の中心都市となっています。

【雲洞庵】−雲洞庵は越後曹洞宗四大禅寺、「雲洞庵の土踏んだか」の名言発祥地で民衆からも信仰された名刹で、上杉謙信の跡を継いだ、景勝は上田長尾氏の当主長尾政景と謙信の姉である仙桃院の子供である事から幼少期は居城である板戸城で過ごし、雲洞庵で読み書きを学んびました。雲洞庵からは数多くの名僧も輩出し、特に第10世住職北高全祝は上杉謙信、武田信玄両名の心の拠り所として帰依され、永禄10年(1567)には信玄の招きで龍雲寺(信濃国佐久郡岩村田:現在の佐久市)の住職となり、領内曹洞宗寺院の僧録司に任命されています。

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