上越市: 高田城

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概要・歴史・観光・見所

高田城(上越市)概要: 高田城は慶長15年(1610)に徳川家康の6男、松平忠輝が60万石(75万石)で入封し後、計画され慶長19年(1614)に完成した平城で高田藩の藩庁が設置されました。高田城の築城時は未だ大坂に豊臣秀頼が健在で政治的緊張状態にあった為、築城に際しては伊達家(仙台藩)や上杉家(米沢藩)、前田家(加賀藩)など有力外様大名を中心に13家の天下普請で行われ、大名の経済的疲弊を狙った政策の一つと考えられます。

築城工期もわずか4か月で、豊臣家に対し高田城が軍事的に重要視されていた事から、短期間で竣工するために天守閣(3階櫓を天守の代用)や石垣のない実践的な城郭として計画されました。

高田城の城主となった松平忠輝は家康の数多い子供達の中で徳川を名乗れなかった数少ない1人で伊達政宗の娘を正室に迎え、器量的にも他の兄弟達を凌駕していた為危険視され(諸説あり実際の理由は不明だが生後直後から父親である徳川家康に疎んじられ待遇を冷遇だったとされます。)、大坂の陣後の元和2年(1616)に改易となり伊勢朝熊に流罪となりました。忠輝はその後元和4年(1618)に飛騨国高山藩、寛永3年(1626)に諏訪藩(高島藩)に流され天和3年(1616)に高島城(長野県諏訪市・諏訪湖に浮かぶ水城)で死去、享年92歳。

その後、酒井家次が高崎藩(群馬県高崎市)から10万石で入封してきましたが、元和4年(1618)には松代藩(長野県長野市松代町)から松平忠昌(結城秀康の次男)を25万9千石で迎えます。その忠昌は元和9年(1623)に50万石の福井城(福井県福井市)に入り、高田城には松平光長(松平忠昌の兄・忠直の子供)が26万石で城主となります。

高田城は危険視又は問題を起こした大名にあてがわれる例が多い土地柄で高田城主となった光長は天和元年(1623)に起こった越後騒動で改易、長岡藩の藩主牧野忠辰が高田城を受け取り、天領時代には新発田藩の藩主溝口重雄などが城番を担っています。

高田城:上空画像

その後は、京都所司代を罷免された稲葉正往や5代将軍綱吉の不興を買った松平定重 、同じく8代将軍吉宗の不興を買った榊原政岑(政岑は姫路藩時代に蟄居となり幼少だった榊原政永が高田藩に移封)などが続きましたがその後は榊原家が6代(政永→政敦→政令→政養→政愛→政敬)城主を歴任しています。

そのような理由からか次第に石高が低い大名が高田城に入り、寛文5年(1665)の高田地震、寛延4年(1751)の宝暦地震、享和2年(1802)の火災、弘化4年(1847)の善光寺地震で大きな被害を受けると、当初の高田城の規模を石高的にも維持出来ず、その都度縮小し現在見られる姿になったとされます。

明治3年(1870)の火災により廃城をまたずして多くの建物が焼失し、さらに明治41年(1908)に第13師団が高田城の本丸に設置された事で城郭の一部(土塁の切り崩しや水掘の埋め立て)が変更されています。現在の高田城は堀や郭の様子がよく保存され昭和29年(1954)に新潟県指定史跡に指定されています。城跡に設けられた高田公園は上野恩賜公園(東京都台東区)、弘前公園(青森県弘前市)と共に日本三大夜桜に数えられています。

【 高田城・縄張り 】-高田城は本丸を中心にニノ丸、北ノ丸、三ノ丸、八幡丸、人質曲輪などがあり本丸は深い水掘に囲われ、3箇所の出入口は全て枡形で櫓門が設置され南西隅には天守閣に変わる三重櫓(現在復元)が設けられられました。又、外掘の外側には関川、清田川といった川が天然の掘として機能し平城ながら堅城だったとされます。高田城は輪郭式平城で本丸を中心に二ノ丸が囲い、北東方向と南西方向に三ノ丸が出丸のように配され、南西の三ノ丸のさらに南西には出島がありました。本丸は東西215m、南北228mで藩主の御殿の他、南西隅には天守閣に見立てた三重櫓(御三階)、多聞櫓2棟、櫓台1箇所、御茶屋台1箇所があり二ノ丸との間には東側と南側に枡形の櫓門、北側にも櫓門が設けられていました。

二ノ丸には多聞櫓の他、硝煙蔵や、武具蔵、城代屋敷があり、場所のよっては北ノ丸や人質曲輪、卍曲輪、八幡丸などの別称があり北東の三ノ丸には米蔵、南東の三ノ丸には武具蔵が設けれていました。堀は概ね2重でさらに外側に流れる関川と青田川、儀明川が天然の外掘に見立てられたようです。基本的には土塁が中心の城で部分的には石垣が利用されていたと思われますが、築城当初の城主である松平忠輝は60万石(実石は75万石とも)の大大名で、縄張りをしていたのが伊達政宗とも言われている事から、現在に比べて想像も出来ない程に壮大な城郭だったとも考えられます。

【 高田城・城下町 】-高田城の外堀の外側は全て武家地で、武家地の北側を新潟方面に奥州街道(所謂東北地方を縦断して五街道に数えられた奥州街道ではなく、新潟方面に通じる脇街道)が、西側の直江津、信州方面に北国街道が通り、各街道沿いは商人町が形成されました。西側の商人町(本町通り)のさらに西側には武家地(下級武士)が南北方向に町割され、そのさらに西側には同じように寺町が形成されていました。

寺町は2つの通りがあり、現在でも66カ寺がこの地区に集中し地方の寺町として最大級の規模となっています。又、城の北東にあたる北城町二丁目には鬼門鎮護として北城神明宮が勧請されています。現在の高田の町並みは中心街こそ近代化されていますが「雁木」と呼ばれる雪国独自のアーケードをもつ町屋が多く軒を連ね当時の雰囲気を現在に伝えています。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-上越市
・ 現地案内板


高田城:ストリートビュー

高田城:写真

高田城
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