春日山城(上越市)概要: 春日山城は南北朝時代の永徳元年(1381)に時の 越後守護代長尾高景が築いたのが始まりとされます。当初は直江津湊の近くに設けられた越後国守護職上杉家の守護所である至徳寺館(越後府中の館)の詰め城として機能していたようです。戦国時代に入ると上杉家の凋落に伴い、越後守護代の長尾家が台頭し永正4年(1507)、長尾為景は上杉定実を擁立し、当時の守護上杉房能を追放し形式上は越後国を掌握しました(旧守護方の国人領主との対立が激化した)。春日山城も長尾家の支配下に入り長尾為景、晴景、景虎、上杉景勝の四代の居城となりその都度増改築され、特に長尾景虎の代に関東管領上杉家の名跡を継ぎ上杉謙信と名乗り、越後の統一を果たすと、上野、信濃、越中、能登、出羽へと侵攻し全国有数の大大名へと成長し春日山城は難攻不落の城とうたわれました。
天正6年(1578)、上洛目前だった上杉謙信が病死すると上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(北条氏康の子息)と相続を巡り内乱となり春日山城には景勝、御館には影虎が立て籠もり領内もほぼ2分され「御館の乱」と呼ばれました。約1年の間、春日山城などが戦場となり景勝が勝利するものの、領内の勢力が大きく削がれ、他国からの干渉も強くなりました。
織田信長による越後侵攻により北陸からは柴田勝家、信濃からは森長可、上野からは滝川一益に侵攻され数日後には春日城下にも達する程に窮地に立たされましたが天正10年(1582)本能寺の変で信長が自刃、各諸将は自領に引き上げた為、何とか命脈を保ちました。
その後、信長の後継者争いに勝ち残った豊臣秀吉に逸早く従う事で信任を得て、小牧・長久手の戦いや富山の役、小田原の役、奥州仕置きなどで尽力する事で謙信時代には及ばないものの、越後、佐渡、出羽庄内地方、信濃西部の90万石の大大名としての地位が確立し、文禄4年(1595)には景勝が五大老の1人として抜擢されました。
慶長3年(1598)、景勝は120万石の大大名として鶴ヶ城(福島県会津若松市)に移封となり代わって春日山城には堀秀治が45万石(与力大名である溝口秀勝新発田城6万1千石、村上義明(頼勝)村上城9万石を除くと実石30万石程度)で城主として入ります。秀治は執政である堀直政に命じて春日山城を近代城郭へと改修する一方で上杉家を慕った旧臣達による遺民一揆に悩まされ、度々春日山城にも押し寄せられました。
これは、景勝が移封前の越後領の年貢米を会津領に引き上げた為、困った秀治が加税や上杉家縁の社寺の領地の安堵を行わなった事が一因になったとも云われ、特に慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与する堀家、前田家の会津侵攻を阻止する為、上杉家の執政直江兼続により扇動され大きな被害を被っています。
春日山城は中世の山城として戦略的には難攻不落を誇りましたが行政的に使い勝手が悪く、堀忠俊の代に直江津港付近に福島城を築き慶長11年(1607)に春日山城は廃城となります(山城禁止令が発令されたとも)。長尾家の菩提寺だった林泉寺の茅葺屋根の惣門が搦手門を移築したものと伝えられています。
春日山城:上空画像
現在も春日山城の城跡には郭の形状や土塁、空堀などの遺構が数多く残り、歴史的にも大変貴重な事から昭和10年(1935)に国指定史跡に指定されています。周囲には長尾家の菩提寺だった林泉寺や崇敬社である春日山神社などの史跡が点在しています。
春日山城(新潟県上越市:標高182m、蜂ヶ峰(春日山))は難攻不落の名城として知られ、特に全国有数の山城である観音寺城(滋賀県近江八幡市:標高432.9m、繖山)、小谷城(滋賀県長浜市:標高約495m、小谷山(伊部山))、七尾城(石川県七尾市:標高約300m、石動山系城山)、月山富田城(島根県安来市:標高197m、月山)と共に日本五大山城の一つに数えられ、平成18年(2006)に日本100名城に選定されています。
【上杉謙信の暗殺説】-上杉謙信は一般的には天正6年(1578)3月9日に春日山城の厠で倒れ、3月13日に急死、死因は脳溢血とされます。これとは別に暗殺説も依然として根強く、直接対決が迫った織田信長(安土城の城主)や養子の1人上杉景勝が最右翼となっています。ここでは、上杉景勝説を取り上げます。まず、大きな動機となったのが景勝の実父である長尾政景の死因で、「北越軍談」によると謙信が宇佐美定満に命じて暗殺させたとあり、その事実を知った景勝が謙信に対して恨みを持っていた可能性は非常に高かったと思われます。
もう1つの動機が同じ謙信の養子である上杉影虎の存在です。影虎は小田原北条氏から養子として向かい入れた人物ですが、謙信の幼名である「影虎」を与えられ、謙信と同様に軍役が無く、関東管領家だった上杉憲政と関係を密にさせる事で上杉家の家名と関東管領職を円滑に委譲する事を考えていたのかも知れません。対して景勝には、長尾家当主や軍役の長、越後守護職を委譲したいと考えていたようです。
あくまでも推論ですが、景勝には十分に動機があったように思われます。その後の行動も奇妙で、謙信が死去した2日後には春日山城の金庫と武器庫、謙信の印判を掌握し、3月24日には上杉家を当主を継いだ事を宣言し他国にも書状を送る等、余りの手際の良さから景勝は謙信の死とその後の行動を早くから想定していたとしか思えないとされます。謙信の葬儀でも、本来、長尾家の菩提寺である林泉寺(曹洞宗)がそれらを司り、境内に葬られるはずが、他宗派(景勝が帰依していた真言宗)によって葬儀が執り行われ遺骸も、甲冑が着せられたまま大甕に入れられ、その上から漆で満たし密封された上で春日山城の本丸に埋葬されたとあります。
さらに、景勝が慶長3年(1598)に会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)に移封になった際には謙信の遺骸が入った大甕を会津に移さず、余りにも不謹慎だった事から、新たに春日山城の城主となった堀秀治が苦言を呈してようやく移される始末で、林泉寺も結局、米沢城(山形県米沢市)に移封後の暫くたってからようやく許され米沢城下に境内を構えるようになっています。
春日山城の案内板
「 頸城平野の西北に位置する春日山上にあって、上杉輝虎(謙信)の居城地であった。本丸を構え、二の丸、三の丸をその下に配し、 土塁濠を重ねて此隣に勢威を示した。頂上は蜂ヶ峰と称し、眺望に富み附近の属城を充分に監視することが出来た。本丸址の後方、一段低い所に大井戸があって夏でも水の枯れることがなく、その北方に毘沙門丸及び御花畑があった。また西方には鐘楼堂や景勝屋敷址等があって、南方の二の丸、三の丸方面には家臣の屋敷址があった。規模は極めて雄大である。 文部省 」
春日山城:周辺駐車場マップ
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