高田藩

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高田藩・歴史・観光・見所
高田藩概要: 慶長3年(1598)に上杉景勝が会津に移封された後、堀秀治が30万石で春日山城に入ります。秀治は関ヶ原の戦い時に直接戦いに加わらなかったものの旧上杉家家臣が起こした一揆を鎮圧した事で領土が安堵されます。慶長11年(1606)に秀治が死去、跡を継いだ堀忠俊は幼少だった事もあり実質は叔父である堀直政が政務を担当し慶長12年(1607)福嶋城に移ります。慶長13年(1608)に直政が死去すると今だ幼少の秀治を差し置いて直政の子供である坂戸城主堀直寄と三条城主堀直次が権力闘争が勃発し、結果、忠俊と直次は改易の上流刑となり、直寄は信濃国飯山藩4万石へ移封となりました。その後、松平忠輝が65万石で福嶋城へ入り、すぐさま高田城を築城、慶長19年(1614)に高田に移り事実上高田藩が立藩します。

元和2年(1616)に忠輝が改易されると酒井家次が高崎藩から10万石で入封、さらに元和5年(1619)に結城秀康の2男である松平忠昌が25万9千石で入封しています。元和9年(1623)福井藩2代藩主松平忠直が徳川将軍家に不快を買った事で強制蟄居になった事から忠昌が3代福井藩主に就任し、代わって忠直の嫡男である松平光長が高田藩の藩主となっています。延宝8年(1680)、光長の後継ぎと、その縁組を巡り家臣内の対立が深まり所謂「越後騒動」により光長は改易となり、長岡藩の藩主牧野忠辰が高田城を受け取り、天領時代には新発田藩の藩主溝口重雄などが城番を担っています。

その後は稲葉正往、戸田忠真、松平定重などが短期間の内に次々に藩主が変わり要衝の地でありなが左遷場所のような扱いを受けます。榊原家も先代政岑が時の将軍徳川吉宗に不快を買い蟄居を命ぜられてからの移封となり懲罰的な意味合いの強いものでしたが明治維新まで榊原家が統治した為、藩政的には安定します。特に3代藩主榊原政令は藩政改革を行い、質素倹約、新田開発、産業育成、鉱山開発、防砂林植樹などを行っています。戊辰戦争では越後諸藩の中では比較的早く新政府側に恭順姿勢を見せた事で長岡や会津攻めの先鋒となり大きく貢献しました。その後の高田藩は明治4年(1871)に高田県となり、後に柏崎県を経て新潟県に編入されます。


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高田藩歴代藩主
 藩主名藩主年間石高備考
初代堀秀治1598〜160645万石 
2代堀忠俊1606〜1610 45万石 
初代松平忠輝1610〜161675万石 
初代酒井家次1616〜161810万石 
2代酒井忠勝1618〜161910万石 
初代松平忠昌1619〜162325.9万石 
初代松平光長1623〜168126万石 
初代稲葉正往1685〜170110.3万石 
初代戸田忠真1701〜17106.8万石 
初代松平定重1710〜171211.3万石 
2代松平定逵1712〜171811.3万石 
3代松平定輝1718〜172511.3万石 
4代松平定儀1725〜172711.3万石 
5代松平定賢1727〜174111.3万石 
初代榊原政永1741〜178915万石 
2代榊原政敦1789〜181015万石 
3代榊原政令1810〜182715万石 
4代榊原政養1827〜183915万石 
5代榊原政愛1839〜186115万石 
6代榊原政敬1861〜187115万石 

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高田藩:名所・旧跡
高田城
高田藩の藩庁が置かれた高田城
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藩主祭神
高田藩の藩主榊原家が祭られている榊神社
榊神社
崇敬社
高田藩主の藩主が崇敬した居多神社
居多神社
藩主菩提寺
高田藩の藩主の菩提寺だった林泉寺
林泉寺
藩主祈願所
高田藩の藩主の祈願所だった浄興寺
浄興寺
藩主祈願所
医王寺薬師堂(高田城・裏鬼門鎮護)
医王寺薬師堂
 
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