【 概 要 】−榊原政永は元文元年(1736)、姫路藩(兵庫県姫路市)の藩主榊原政岑と坂田氏の娘との子供(幼名:富次郎政従)として生まれました。寛保元年(1741)、政岑が強制蟄居になると兄である小平太政純が榊原家の家督を継ぎ高田藩(新潟県上越市)に移封となりました。小平太は7歳と幼少だった事から政岑が後見人として引き続き藩政を司り新田開発や灌漑整備、質素倹約、竹細工などの産業育成を行っています。
寛保3年(1743)に政岑が死去すると領内菩提寺である林泉寺(新潟県上越市)に葬られ墓碑が建立されています。延享元年(1744)に僅か10歳の兄が死去すると幕府から末期養子が認められる年齢に達しておらず、さらに富次郎は1歳違いで背格好も似ていた事からすり替える事で家督を継ぎ高田藩主の藩主に就任し(すり替えるとは言っても幕府から内密の了承を得ていたようです)、最終的に官位は従四位下右京大夫まで達しています。
宝暦元年(1751)に越後、越中国でマグニチュード7.0以上の大地震が発生し、藩庁が置かれた高田城の城下町では半分の家屋が倒壊し沿岸部の岩壁が次々と崩落、死者は諸説あるものの1000〜2000人を超える大きな被害を受けました。高田藩は自らの財力では到底復興出来ないと判断し、幕府から1万両の借財を受け再興に尽力しています(榊原政永はまだ江戸に留め置かれお国入りを果たしておらず、実務は国元の家老などが行ったと思われます)。しかし、不幸は続き宝暦3年(1753)には高田城の城下である上田端町が火元となり467戸が焼失する大火が発生、宝暦10年(1760)には寺町が大火に見舞われ26カ寺が焼失しています。
その他には洪水や大雪、凶作も発生し高田藩の財政が著しく逼迫した事から、榊原政永は家臣の減俸や人数整理、領民の増税などを行ったものの大きな成果を挙げれなかっただけでなく、領民の不満が高ぶり騒動にもなっています。天明2年(1782)には再び幕府から借財を行い、格式も期間限定ながらも5万石に格下げを許されています。榊原政永が行った文化的な側面は榊原家の菩提寺である正眼山光栄寺や高田別院に寺地を寄進などを行っています。寛政元年(1789)隠居、文化4年(1807)死去、享年73歳。
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