【 概 要 】−長岡藩初代藩主牧野忠成は牧野康成の子供として生まれ、父親と同様に徳川家康、秀忠に仕えました。慶長5年(1600)に関が原の戦いでは秀忠に従軍し中山道を西上し、上田城(長野県上田市)攻防戦にも参加しています。その際、家臣の1人が真田軍の挑発に乗り、承諾を得ず戦線を開き敗れた事で康成は蟄居し、戦後は忠成が大胡藩の政務を執りしきりました。
慶長14年(1609)に康成が死去すると(菩提寺は群馬県前橋市の養林寺)大胡藩2代藩主に就任、慶長19年(1614)の大坂冬の陣と慶長20年(1615)の大坂夏の陣で大功を挙げた事で元和2年(1616)に長峰藩(新潟県上越市)5万石で加増移封となり、さらに元和4年(1618)に長岡藩(新潟県長岡市:本城−長岡城)6万石で移封となりました。元和6年(1620)、福島正則改易に伴い広島城(広島県広島市)の引き取りに功があり7万石4千石に加増され長岡藩の基礎を造り上げました。
承応3年(1654)、江戸屋敷で死去、享年74歳、戒名「宝性院殿前四品仙譽月卦正心大居士」、菩提は「死しても長岡を見守りたい」との遺言に従い、長岡城の城下を見下ろせる城山(鎧山:標高335m)中腹に葬られ、普済寺(長岡市)が墓守として管理し歴代長岡藩主も普済寺を庇護しています。又、普済寺境内に建立されている忠成の五輪塔の両脇には殉死した能勢兵右衛門と渡辺七郎左衛門の墓碑も設けられています。
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