溝口家:概要

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概要・歴史・観光・見所
溝口家(宝光寺)

【 概 要 】−溝口家は甲斐源氏武田氏の庶流である逸見又太郎義重の後裔とされ数代後、応永年間(1394〜1428年)に尾張国中島郡溝口郷に移り溝口氏を称したのが始まりとされます。勝政の代には溝口城を築くなど一定の影響力があり、跡を継いだ秀勝は丹羽長秀に仕えた後、、織田信長に才を見出され直臣として天正9年(1582)に若狭高浜領5千石が与えられています。天正10年(1582)、本能寺の変で信長が自刃すると羽柴秀吉に属し丹羽長秀(北ノ庄城:福井県福井市、123万石)の与力大名として加賀大聖寺領(石川県加賀市大聖寺町)4万4千石を拝領しています。

天正13年(1585)に長秀が死去すると跡を継いだ長重が若狭に移封となり代わって北ノ庄城に入封した堀秀政の与力となり慶長3年(1598)には跡を継いだ堀秀治の越後移封に伴い6万石で新発田領(新潟県新発田市)に入り新発田藩(藩庁:新発田城)を立藩しています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは秀治や堀直政と共に東軍方として行動しましたが、上杉家の執政である直江兼続が画策した一揆(上杉遺民一揆)が越後国内に頻発した為、目立った軍事行動が出来ず本領安堵に留まっています。

2代溝口宣勝は新田開発で2千石が加増されたものの、弟である溝口善勝に1万2千石を分知し5万石となり、3代溝口宣直は弟である溝口宣秋に6千石、溝口宣俊に5千石、溝口宣知に4千5百石を分与しています。ただし、新田開発により実石が40万石程度だったとされ、表高は5万石で維持されています。その後は、3代溝口宣直4代溝口重雄→5代溝口重元→6代溝口直治→7代溝口直温→8代溝口直養→9代溝口直侯→10代溝口直諒→11代溝口直溥→12代溝口直正と藩主を歴任しています。

万延元年(1860)に高直しにより10万石となり、戊辰政争の際は奥羽越列藩同盟に参加していますが、当初から士気は低く、10代直諒が編纂した「報国説」で勤皇をうたっている事から家臣内や領民にも勤皇心を持つものがも多ったとされます。列藩同盟側の主力である会津藩、米沢藩、庄内藩、長岡藩に囲われていた為、やむを得ず参加していた事もあり、戦況が不利になると逸早く新政府側に降伏しています。その為、新発田藩領は殆ど戦禍を受けておらず、最後の藩主となった溝口直正も引き続き知藩事を勤めています。宝光寺(新発田市)は溝口家歴代の菩提寺として創建された寺院で溝口家と共に新発田の地に随行してきました。宝光寺境内に建立されている溝口家墓所は新発田市指定史跡に指定されています。

宝光寺:写真
溝口直治と縁がある宝光寺 溝口直治と縁がある宝光寺 溝口直治と縁がある宝光寺 溝口直治と縁がある宝光寺
新発田城:写真
溝口直治と縁がある新発田城 溝口直治と縁がある新発田城 溝口直治と縁がある新発田城 溝口直治と縁がある新発田城



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