内藤家:概要

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概要・歴史・観光・見所
内藤家(光徳寺)

【 概 要 】村上藩(村上市:本城-村上城)内藤家の藩祖である内藤信成は幼少の頃から徳川家康に従い、当時は松平元信だった事から「信」の字を賜り信成に改称し側近の1人となりました。伝承によると生母は家康の父親である松平広忠の寵愛を受け身籠ったとされ、信成が生まれると内藤清長の養子として育てられたと伝えられています(伝承通りとすれば家康と信成は異母兄弟ということになります)。その後は永禄元年(1558)の広瀬城攻防戦や元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦い、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590)の小田原の役などに従軍し、家康が関東に移封の際には韮山城(静岡県伊豆の国市)1万石が与えられています。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功により慶長6年(1601)に駿府城(静岡県静岡市)4万石、慶長11年(1606)に長浜城(滋賀県長浜市)4万石となっています。享保5年(1720)、内藤弌信が駿河田中藩から村上藩5万石で移封となり、以降、9代にわたり内藤家が村上藩主を歴任して明治維新を迎えています。戊辰戦争の際は混乱を極め、奥羽越列藩同盟に参加しながら藩内はまとまらず江戸藩邸にいた8代藩主信民は新政府軍に恭順する為に村上城(村上市)まで出向き列藩同盟派の説得を行うも失敗し自刃しています。

新政府軍が村上領内に進軍してくると最年少で家老を務めた鳥居三十郎が列藩同盟派200名を引き連れて庄内藩に出奔し藩境である鼠ヶ関に布陣、一方、新政府恭順派は政府軍の先鋒として鼠ヶ関に派兵した為、村上藩士同士で戦いを演じる事になりました。明治2年(1869)、内藤信美が最後の藩主として就任が認められ、その後は藩知事を務めています。内藤家の領内菩提寺は光徳寺(村上市)で、近年になり江戸の菩提寺である小石川の無量院や広尾の東北寺から内藤家縁の墓碑を境内に移しています。

村上城:写真
内藤家と縁がある村上城 内藤家と縁がある村上城 内藤家と縁がある村上城 内藤家と縁がある村上城
光徳寺:写真
内藤家と縁がある光徳寺 内藤家と縁がある光徳寺 内藤家と縁がある光徳寺 内藤家と縁がある光徳寺



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