【 概 要 】−色部家は桓武平氏の一族である秩父氏が、鎌倉時代初期に小泉庄の地頭職として赴任し、地名に因み色部氏を称した氏族です。色部家の祖は為長とされ5代公長は文永3年(1266)に菩提寺である善行寺を創建、南北朝時代には北朝方に属し一族である本庄氏や南朝方の河村氏、平林氏などと交戦し、平林氏の居城である平林城(新潟県村上市)を掌握すると自らの居城としています。
その後は独立を保ちながら越後国守護職上杉家に従い、永正の乱でも下克上を試みた守護代長尾為景と対立し永正5年(1508)には守護代方に与した中条氏の侵攻を受け平林城が落城しています。これにより形式上は守護代長尾家に従いましたが、越後国内は内乱により不安定な状態が続き、「天文の乱」では10数年にわたり戦乱となりました。これにより長尾晴景の影響力が急速に低下し、変わって弟である長尾景虎(後の上杉謙信)が台頭し、守護である上杉定実の裁定により景虎が長尾家の家督を継ぎ色部家もこれに従っています。
当時の当主色部勝長は長尾家家中の「披露太刀之衆」第5位に列し、次第に地位を確立し、武田信玄との川中島の戦いでは大功を挙げ上杉謙信から血染めの感状を貰っています。その後も謙信の関東出兵に随行し、佐野城の城将に任ぜられると小田原北条氏とも激戦が行われました。
天正6年(1578)、謙信急死により上杉家の家督争いが発生、所謂「御館の乱」では跡を継いだ色部長実(長真)が上杉景勝方に与して行動し勝利を得た事から引き続き上杉家の重臣という立場を確立しています。天正18年(1590)の太閤検地の際には出羽国仙北郡の大森城(秋田県横手市)に赴任し、その時帰依したのが「保呂羽山波宇志別神社」で、領地に帰還する際に保呂羽山波宇志別神社の祭神の分霊を勧請し菩提寺である千眼寺(村上市)の守護神として保呂羽神社(現在の保呂羽堂)を創建しています。一方、領内に鎮座している桃川神社や石船神社などの社寺の保護をおこなっています。
慶長3年(1598)、上杉景勝が会津黒川城(福島県会津若松市)に移封になると色部氏も平林城を離れ金山城(山形県南陽市)に赴任、崇敬社となった熊野大社にも保呂羽神社が境内社として勧請され、さらに、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの敗北に伴い景勝が米沢城(山形県米沢市)に移封になると随行し知行地である窪田町に改めて菩提寺となる千眼寺と鎮守社である保呂羽神社(神仏分離令後は保呂羽堂)が創建されています。
色部家の菩提寺は元々色部公長が文永3年(1266)に創建した善行寺(真宗大谷派)で、氏長の代まで続いていましたが、それ以降は長松寺(真言宗)となり色部顕長や新発田重家(新発田城の城主、色部長真の正室の兄)などが葬られています。一方、千眼寺は長禄元年(1457)、村上市大字桃川千眼寺谷に真言宗の寺院として創建され、天文元年(1532)に色部昌長によって耕雲寺10世大仲玄甫を招いて曹洞宗に改宗、天正年間(1573〜1593年)に色部長真によって平林城の城下に移され色部家の菩提寺にしたと伝えられています。
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