上杉謙信:概要

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概要・歴史・観光・見所
上杉謙信(明静院)

【 概 要 】−天正6年(1578)3月13日、上杉謙信死去、享年49歳、死因には諸説ありますが「不慮の虫気」、「大虫」とされます。一般的に「大虫」とは月経の比喩とも云われ更年期障害の婦人病の1つで男性の死因とは考え難い事から上杉謙信女性説の根拠の1つになっています。ただし、謙信の時世の句とも云われる「四十九年 一睡夢 一期栄華 一杯酒」のように酒豪だった事から脳卒中を死因に挙げる説が大勢を占めます。3月15日には信州川中島から春日山城(上越市)北の丸に移転した大乗寺の住職である良海が葬儀を執り行っています。印象的には長尾家、上杉家の菩提寺は曹洞宗の林泉寺が強いですが、当時の謙信は真言宗に傾倒した、又は跡を継いだ上杉景勝(謙信の甥)が真言宗に帰依していた事もあり真言密教の教えを教義としていた大乗寺がその任を担いました。

又、慶長3年(1598)に景勝が会津若松に移封された際、林泉寺は随行せず、元和3年(1617)に景勝の生母である仙洞院が林泉寺14世万安大悦を招きようやく米沢に創建しています。さらに米沢時代の藩主の菩提寺は真言宗である法音寺が担い、大乗寺、蔵王堂など多くの真言宗寺院は毎日欠かさず供養していた事から林泉寺とはやや距離を感じます。林泉寺は米沢では後発組で、慶長3年(1598)には直江兼続の菩提寺である徳昌寺が兼続に従って米沢入りを果たしておりその地位を固めていました。元和5年(1619)に兼続、寛永14年(1637)に正室である船が死去すると形成が逆転し、徳昌寺は廃寺に追い込まれ兼続夫妻はじめ、檀家のほとんどが林泉寺に取り込まれ藩主以外の上杉家関係者や有力家臣達の菩提寺となっています。

一方、謙信の遺骸は甲冑が着せられたまま大甕に入れられ、その上から漆で満たし密封され春日山城の本丸直下にあった不識院に安置されるとあります。不識院とは謙信の戒名である「不識院殿真光謙信大居士」から称されたもので、大甕が文字通り安置された説と埋葬された説あり、慶長3年(1598)、景勝が会津(福島県会津若松市)に移封になった際、大甕は移さなかった事を考えると、その時の時点では既に埋葬されていたと思われます。その埋葬地としては春日山城の北方にあたる明静院(上越市)の境内とされ、明静院の由緒によると「謙信の死後ここに墓所を設け、御敬葬した。」とあり、一旦不識院に安置された後、謙信が信仰した毘沙門天が北方の守護神である事から当地に埋葬されたのかも知れません。

景勝が会津に移封してから約半年後、新たに春日山城の城主となった堀秀治はこの状況を見て景勝に対し謙信の亡骸を会津に移すように要請、それによって大甕毎手明の者100人によって会津若松城に運ばれその城内の西南隅に御堂が造営され収められたそうです。本来、上杉家の菩提寺だった林泉寺に謙信は埋葬されなかった。葬儀直後に景勝は素早く春日山城を掌握し、金蔵や兵器蔵、謙信の印などを抑えたのは余りにも用意周到すぎる。会津移封の際、謙信の亡骸が無視された。など不自然な事が多く謙信は景勝に暗殺されたとの説もあります。

明静院の埋葬地跡には謙信の墓(供養塔)が設けられ元和5年(1619)には当時の高田藩主松平忠昌より墓所の例祭料として12石が寄進されています。一方会津の霊廟は慶長5年(1600)の関が原の戦いで西軍に与し敗北した景勝が慶長6年(1601)米沢に移封と共に移され、慶長7年(1612)米沢城本丸の一角に祠堂を造営し中央に謙信の遺骨、左右に謙信が信仰していた善光寺如来、毘沙門天が安置されました。明治時代に入ると初頭に発令された神仏分離令と米沢城の廃城令により、菩提寺だった大乗寺は上杉神社(米沢市)となり、明治9年(1876)に謙信の遺骨を御廟山へと移葬、もう1つの菩提寺である法音寺(米沢市)が墓守となり善光寺如来、毘沙門天の両像も移されています。

明静院は五智国分寺の奥の院とされます。五智国分寺とは、奈良時代に聖武天皇が各国一寺ずつ造営された国分寺の一つ、越後国(新潟県)国分寺の後継寺院の事で、理由は不詳ですが何故か明静院は奥の院と云われています(明静院に伝わる寺伝によると、行基菩薩が五智国分寺を創建するに当たり、当地に留まり、土地の由来を聞いて感銘を受け、自ら本尊となる大日如来像を彫刻し明静院の前身である岩戸山妙徳院を開いたと伝えています)。五智国分寺(上越市)が現在地に境内を構えたのは戦国時代の永禄5年(1562)に上杉謙信によるもので、それ以前の境内地は謎とされ明静院の境内は候補の一つとなっています。

比較的、判るものとしては室町時代中期に万里集九が記した「梅花無尽蔵」ですが、それによると「堂宇山の如く海涯に冠たり」と表現している事から、素直に読むと五智国分寺は海岸に近い高台に位置していた事が窺え、一般的に奥の院とは聖地を指す場合が多い事からも、明静院の境内地が五智国分寺の旧境内だった可能性が高い事が判ります。しかし、奈良時代に創建された国分寺は広い境内に、南大門や五重塔、金堂、講堂、回廊などを備えたものに比べ、明静院は山岳密教寺院の形態である事から大きな矛盾が見られます。国分寺は官寺である為、朝廷と強く結び付き、一般的には鎌倉時代に武家政権が樹立した事で朝廷の権限が限定されると境内を維持できなくなり衰退する例が多くある事から、五智国分寺(上越市)も鎌倉時代初期には一旦衰退し、当時、山岳密教寺院として大きく繁栄していた明静院がその寺跡を継いだという可能性もあるかも知れません。

こちらも推測ですが、永正4年(1507)に越後守護代だった長尾為景が上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放、為景は事実上の越後の主導者として春日山城に入り、城郭の大規模な改修、拡張をしたと思われます。その際、春日山城の隣地にあった明静院の境内が大きな問題になったのか、又は守護上杉家方として敵対した為に焼き討ちにあったかは判りませんが、その後、上杉謙信によって再興されるまで衰退したと推察されます。

一方、明静院は居多神社(上越市)の聖地でもあります。居多神社の創建は不詳ですが、当時の越後国内では弥彦神社と並ぶ最高位だった事から越後国一宮とされ、社号から当初は能登国一宮の気多大社(石川県羽咋市)と同じ気多神が祭られていたと思われます。それが何時の頃から大国主命を主祭神とする神社に変貌しています。当地に伝わる伝説によると、身輪山(居多神社の旧境内地)には大国主命の宮殿があり、大国主命は奴奈川比売命(糸魚川市に鎮座する奴奈川神社の祭神)を見初め上で結婚するに至り、明静院の境内にある岩屋で建御名方命(信濃国一宮である諏訪大社の祭神)が生まれたと伝えられています。

こちらも推測ですが、明静院(五智国分寺)の本尊である大日如来を大黒天=大国主命に見立て、古くから伝わる伝説を取り入れて、居多神社の祭神を気多神から大国主命に変更する事で、神仏習合の形態を造りあげたのかも知れません(明静院が居多神社と五智国分寺の両方の聖地である理由)。何れにしても明静院(五智国分寺)は室町時代中期以降は没落し、逆に居多神社は越後守護家の上杉家や守護代の長尾家、関東管領上杉家の名跡を継いだ上杉謙信から信仰され越後国一宮としての地位を確立した為、神仏習合の関係性は失われたと思われます。

しかし、上杉謙信の死後、上杉家の家督を巡り養子である上杉景勝と上杉景虎が対立した「御館の乱」が発生すると、居多神社の神官である花ケ前家は景勝と対立した事で、居多神社は没落し、逆に景勝は真言宗を篤く帰依していた事から五智国分寺に対して寺領の安堵と諸役を免除を行って庇護しています。あくまで推察です。

明静院:写真
上杉謙信と縁がある明静院の鎮守社である諏訪神社 上杉謙信と縁がある明静院境内にある胎内潜りの岩 上杉謙信と縁がある明静院境内にある弘法の硯岩 上杉謙信と縁がある明静院本堂の横に建立されている上杉謙信公の御墓
五智国分寺:写真
上杉謙信と縁がある仁王門から見た五智国分寺の境内 上杉謙信と縁がある五智国分寺最古の建物である経堂 上杉謙信と縁がある五智国分寺と関係が深い白山神社の御旅所 上杉謙信と縁がある五智国分寺の境内に建てられた三重塔
居多神社:写真
上杉謙信と縁がある居多神社参道石段から見上げた石鳥居と玉垣 上杉謙信と縁がある居多神社境内から見た拝殿正面と石造狛犬 上杉謙信と縁がある居多神社社殿左斜め前方 上杉謙信と縁がある居多神社本殿と幣殿、背後の社叢
春日山城:写真
上杉謙信と縁がある春日山城の本丸跡 上杉謙信と縁がある春日山城の天守閣跡 上杉謙信と縁がある春日山城の二の丸屋敷跡 上杉謙信と縁がある春日山城の縦堀跡
林泉寺:写真
上杉謙信と縁がある林泉寺 上杉謙信と縁がある林泉寺 上杉謙信と縁がある林泉寺 上杉謙信と縁がある林泉寺



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