上杉憲実:概要

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概要・歴史・観光・見所
上杉憲実(雲洞庵)

【 概 要 】雲洞庵(南魚沼市)を中興した上杉憲実(戒名:雲洞庵長棟高岩)は応永17年(1410)、越後守護上杉房方の3男として生まれ上杉憲基の養子となり応永26年(1419)に関東管領に就任した思われます(記録的に確認出来るのは応永27年)。その後、上野国・武蔵国・伊豆国の守護職にも就任し、これは東日本では鎌倉公方の足利氏に継ぐものであり僅か10歳で巨大な権力を有しました。当時は室町将軍家の足利家と関東鎌倉公方の足利家との対立が顕著になり憲実は対立を避ける為、奔走しますが逆に公方家からは反逆と捉えられ永享10年(1438)には幕府軍と同調し鎌倉軍を打ち破っています(永享の乱)。乱が終結後、憲実は何度も公方家である足利持氏の助命を幕府に窺えますが受け入れられず、持氏が自刃すると事実上隠居、隠遁し、「雲洞庵長棟高岩」を名乗り出家したとされます。

憲実は文化の興隆にも尽力し応永27年(1420)には雲洞庵を再興、歴代関東管領上杉家の菩提寺とし、永享4年(1432)には足利学校(戦国時代に来日した宣教師フランシスコ・ザビエルは足利学校に対し、日本で最も有名な大学として紹介しています。国指定史跡。日本遺産)を再興し僧快元(鎌倉円覚寺)を庠主に招き多数の蔵書を寄贈、さらには金沢文庫(鎌倉時代中期のに北条実時が設けた私設図書館)を再興しています。

雲洞庵のある上田庄は、南北朝時代以降、関東管領上杉家(山内上杉家)の領地になったものの、本拠地は上野国(現在の群馬県)にあった為、直接の行政は尻高氏、発智氏、今泉氏など在地被官が担った為(戦国時代は上田上杉家)、上杉憲実の越後国での実績は雲洞庵以外は目立ったものがありません。特に関東管領に就任した以降は反乱の平定に明け暮れ古郷である越後には落ち着いて凱旋する事は中々出来なかったと思われます。

その後、雲洞庵は歴代関東管領家、それを受継いだ上杉謙信から庇護され、寺運も隆盛し10万石の格式を得て、江戸時代には村上耕雲寺(新潟県村上市)、種月寺(新潟県新潟市)、慈光寺(新潟県五泉市)と共に越後四ヵ道場の1つに数えられました。雲洞庵の信仰的には赤門から本堂に至る参道の石畳の下に法華経を一石一字づつ刻み敷き詰めた事から、そこを歩いただけでも御利益があるとして、「雲洞庵の土踏んだか、関興寺の味噌嘗めたか」が民衆にも広がり1年に一度赤門が開く際には数多くの参拝者が訪れました。又、雲洞庵13世通天存達和尚は幼少の頃の喜平次(上杉景勝)と与六(直江兼続)に学問を教えた事でも知られ、坂戸城の城主である上田長尾家の教育機関でもあります。

雲洞庵:写真
上杉憲実と縁がある雲洞庵赤門の正面全景。重厚な山門は歴史が感じられます。 上杉憲実と縁がある雲洞庵赤門の斜め前方。四脚門に翼廊が備わっています。 上杉憲実と縁がある雲洞庵赤門からの参道の景観。古刹の雰囲気が満点です。 上杉憲実と縁がある雲洞庵赤門に掲げられた山号額「海北禅林」。意味が深いです。



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