【 概 要 】−柿崎景家は長尾為景、晴景、景虎(上杉謙信)の3代に仕え、特に謙信時代には四天王(柿崎景家・直江景綱・宇佐美定満・甘粕景持)、七手組大将(本庄繁長・色部勝長・中条藤資・加地春綱・竹俣清綱・柿崎景家・新発田長敦※時代によって異なる)、上杉二十五将に数えられる側近中の側近で謙信も「分別さえあれば、越後七郡に右に出るものはいない」と評しています。
又、重臣だった事から奉行職などの内政や近隣の領主との折衝などの外交を行い永禄12年(1569)の相模の北条氏政との軍事同盟、「越相同盟」でも次男晴家を人質として北条家に送るなど大きな役割を担っています。軍事面でも関東侵攻や越中侵攻、第4次川中島の戦いでは先鋒として武田信玄の本陣を切り崩し大功を挙げています。
天正2年(1574)に病死、又は天正3年(1575)、織田信長に内通している事が露呈し謙信により断罪されたとも云われ(この説は疑問視されています。跡を継いだ晴家は北条家に人質になっていた事もあり謙信亡き後の相続争いである御館の乱では北条氏康の7男で謙信の養子となった上杉景虎に与した為、景勝方から事実と反する事を流布させたと思われます)遺骸は菩提寺である楞厳寺(上越市)に葬られています。楞厳寺の境内には柿崎和泉守景家の墓碑が建立されています。
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