坂戸城(南魚沼市)概要: 坂戸城の築城年は不詳ですが室町時代、長尾宗景が上田荘の領主になった際、築かれたのが始まりと推定されています。地名から上田長尾氏と呼ばれ、以後、越後守護代長尾氏と共に大きな影響力を持つようになります。
又、越後と関東を結ぶ街道を押さえる軍事的な要衝でもあり、領内を2分にする永正の乱(永正年間、守護方である上杉房能と守護代方の長尾為景との争乱)や御館の乱(1578〜1579年、上杉謙信急死による、上杉景勝と上杉影虎による後継者争い)の際には大規模な改修工事が行われ重要視されました。
特に景勝は上田長尾氏出身だった事から近臣が守備し、御館の乱の際には影虎の血筋である北条家が越後に侵攻し、坂戸城が最終防衛ラインとして機能し、天正10年(1582)には織田信長の家臣である滝川一益が侵攻し、坂戸城も戦場となりましたが堅守しています。
慶長長3年(1598)に景勝が春日山城(新潟県上越市)から会津黒川城(福島県会津若松市)に移封になると春日山城には堀秀治が入封し、坂戸城には一族である堀直寄(堀家執政堀直政の次男)を城主として配しました。
坂戸城は近世城郭として整備されましたが江戸時代に入ると直寄は蔵王堂城(新潟県長岡市)の城主堀鶴千代が幼少で死去した事に伴い、蔵王堂城の城主と兼務するようになり、新たに長岡城築城の計画に力が注がれました。
慶長15年(1610)、越後福嶋騒動と呼ばれた堀家の御家騒動により直寄は飯山藩(長野県飯山市)に移封になり坂戸城は廃城になっています。
坂戸城は標高634mの坂戸山に築かれた中世の山城で山頂付近に設けられた本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸、詰ノ丸、西ノ丸、出丸などの主要な郭の他、数多くの郭が存在し、無数の空堀や竪堀、堀切が配され一大要塞としての重要性が窺えます。坂戸城は昭和54年(1979)に国指定史跡に指定されています。
坂戸城:上空画像
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