耕雲寺 |
耕雲寺は応永元年(1394)に本庄城(後の村上城)の城主本庄顕長が名僧と知られる傑堂能勝禅師を招いて創建した寺院です。傑堂能勝禅師は南北朝時代の南朝の有力武将楠正成の孫とされる人物で越後の滝沢寺の梅山聞本禅師に師事しました。耕雲寺は当地域の曹洞宗寺院の中心として大きく発展し数多くの名僧を輩出しました。周辺の国人領主も事実上の菩提寺として葬儀や追善供養が行われ、寺領の寄進が堂宇の造営が繰り返されました。時代が下がると、国人領主達は居城の城下に耕雲寺の住職を招いて自らの菩提寺を創建するようになり飛躍的に信仰が広がり、越後国だけでなく周辺各国に合わせて直末80ヵ寺、孫末367ヵ寺を数えました。江戸時代に入ると徳川将軍家から10万石の格式、村上藩(本城−村上城)から寺領150石が安堵されました。
|
|
雲洞庵 |
雲洞庵は奈良時代の養老元年(717)、藤原不比等の2男とされる藤原房前が母親である先妣尼の追善供養する為に一庵を設け創建した寺院です。当地域は藤原家の荘園だった事から引き続き藤原家の庇護により大きく発展し「日本一の庵寺」、「越後一の寺」の異名がありました。室町時代の応永20年(1420)に上杉憲実が耕雲寺傑堂能勝禅師の弟子である顕窓慶字を招いて曹洞宗の寺院として中興開山しています。戦国時代には名僧として知られる北高全祝和尚を輩出し、上杉謙信(春日山城の城主・越後守護職)や武田信玄(武田館の城主・甲斐守護職)から篤く帰依されています。雲洞庵は当地域の領主で坂戸城の城主上田長尾家からも庇護され、後に謙信の跡を継いだ喜平次(後の上杉景勝)が雲洞庵に預けられ通天存達和尚から教育されたと伝えられています。 |
|
種月寺 |
種月寺は室町時代の文安3年(1446)に上杉房朝が耕雲寺3世南英謙宗を招いて創建した寺院です。南英謙宗は薩摩国(鹿児島県)で生まれ、相国寺大岳和尚の下で出家、耕雲寺を開いた傑堂能勝の元で修行を重ね耕雲寺3世に就任しています。その後、明(中国)の天童山景徳寺で修行を重ね皇帝から「大瞞行果禅師」の号を賜り、帰国後に種月寺を開山、翌年、南陸奥国の領主である芦名盛信に招かれ芦名家の菩提寺である天寧寺(福島県会津若松市)の住職に就任しています。南英謙宗は多くの墨跡や書籍を種月寺に残しており22冊が新潟県指定文化財に指定されています。境内背後に居城を構える小国家から庇護され文明17年(1485)には小国重頼により「首楞厳義疏註経」が奉納されています。本堂は江戸時代中期の建築で国指定重要文化財に指定されています。
|
|
慈光寺 |
慈光寺は元々は白山信仰の拠点だったとされ弘法大師空海が彫刻したとされる薬師如来像が祀られていました。室町時代の応永10年(1403)に領主である神戸最重が耕雲寺の傑堂能勝禅師を招いて曹洞宗の寺院として中興開山しています。上杉憲実の庇護や傑堂能勝禅師の跡を継いだ顕窓慶字(2世)、虚廓長清(3世)の尽力などにより大きく発展しましたが、戦国時代の兵乱に巻き込まれ境内が荒廃し衰微しました。江戸時代に入ると村上藩主(本城−村上城)に就任した堀直嵜が帰依した事で再興を果たし、堀直嵜の後裔が藩主を務めた村松藩(本城−村松城)堀家からも庇護を受けました。高僧として知られた空印寺(福井県小浜市)の住職面山瑞芳禅師の弟子である衡田租量禅師が慈光寺の住職として就任すると再び名声が広がり境内、堂宇の整備が行われています。
|
|