長岡城概要: 長岡城の築城は江戸時代初期の元和2年(1616)に堀直寄が8万石で長岡藩を立藩した時に築城されました。江戸時代当初は市内にある蔵王堂城に入りましたが、蔵王堂城は水害が多く、小規模だった事から長岡城の築城が計画され、城下町も蔵王堂から遷されました。しかし、直寄は元和4年(1618)に村上城(村上市)に移った為、その後に入封した牧野忠成が引き継ぎ完成させました。牧野家は譜代大名として7万4千石を有し、越後の外様大名を牽制する意味で長岡城は小規模ながら堅城として縄張りされ"苧引形兜城"や"八文字構浮島"との異名がありました。
長岡城は梯郭式の平城で本丸を中心に三重の堀とさらにその外側の姉川と太田川に囲まれ、本丸と詰の丸には天守に代わる三重櫓が設けられ、二重櫓は本丸に5基、二ノ丸に2基、要所には枡形に櫓門が建てられました。
長岡城は災害が多く、享保13年(1728)と天保15年(1844)には火災、寛文11年(1671)と延宝2年(1674)、天明元年(1781)、寛政元年(1789)は水害(9代藩主牧野忠精の時世で、城内にある多くの施設が被害があったと記録されています)、文政11年(1829)には大地震で大きな被害を受けています。
【 北越戦争と長岡城 】-戊辰戦争(北越戦争)では長岡藩が白石城(宮城県白石市)で結成された奥羽越列藩同盟に参加した為(当初は中立を保ち争いを避けようとしましたが小千谷談判で新政府軍との交渉に決裂し戦端が開かれました)、新政府軍と交戦状態となり北越戦争最大の戦いと言われた長岡城攻防戦が繰り広げられました。長岡藩は軍備的に圧倒的不利の中、上席家老河井継之助を中心に新政府軍に大きな被害を与えたと言われ、一度落城した長岡城を再び奪取するなど局地戦では何度が新政府軍に勝利しています。新潟港(新潟市)が制圧され、新発田藩(藩庁:新発田城)が降伏すると一気に形成が不利となり長岡藩も降伏、長岡城も開城し、新政府軍に明け渡し廃城となりました。
明治時代に入ると、鉄道敷設の際に意図的に長岡城の本丸に停車場が設置されるなど徹底的に破却、僅かに残された遺構も太平洋戦争の空襲やその後の開発などによって失われ、現在はその遺構を見る事が困難になっています。
現在の長岡駅周辺が本丸、西側に位置する厚生会館付近(長岡アオーレ)が二ノ丸だったとされ、それぞれ石碑が建立されています(二ノ丸の石碑付近には長岡城の鎮守社の1つだった稲荷神社が遷座しています)。
【 長岡城の縄張 】-長岡城は主要部以外は土塁が主体の梯郭式の平城で、本丸(東西43間、南北53間)を中心に東側には詰丸(馬出:東西22間、南北51間)、西側には二ノ丸(東西45間、南北51間)があり、それらを北・西・南側をコの字型で取り囲むように三ノ丸が設けられ、さらに外側に外郭があり土塁と水掘で囲んでいました。
又、城下周辺には大河である信濃川をはじめ、柿川(内川)や栖吉川、赤川などが複雑に流れ、平城ながら天然の要害を成していました。本丸には北西隅に天守の代用となった三重櫓(御三階)の他、二重櫓が5基、本丸御殿、二ノ丸との間には枡形門が設けらていました。
二ノ丸には藩庁など長岡藩の施設、南西と北西隅に二重櫓が設けられていました。詰丸の北東には三重櫓が設けられ、長岡城全体では城門が17門が設置されていました。
その他に城内には蒼柴神社(祭神:牧野忠辰、その後悠久山に遷座)や稲荷神社(二ノ丸跡地に城内稲荷として遷座)、八幡神社(その後城下に遷座)、藩校である崇徳館などが設けられました。
【 長岡城の城下町 】-長岡城は赤川と内川を外掘に見立てた城郭で城の周辺には武家屋敷が配され、大手口から内川にかけては商人町、街道沿いには職人町によって城下町が形成されていました。
この事から藩庁(行政、軍事)が置かれた城下町、信濃川の支流を引き込んで物資の集積場としての商人町、それらの物資を日本海側、内陸に分配する舟運の拠点となった川湊町、新潟やその他に通じる交通の要衝としての宿場町などの要素が重なりあい長岡は大きく発展しました。
戊辰戦争時では新政府軍と長岡城を巡る攻防戦を展開し北越戦争最大の激戦地とされ城下町は大きな被害を受け往時の様子は略消滅し(新政府軍に対立した事から長岡城は徹底的に破却されたとされ、石垣の一部が資料館の敷地内に移設され、三重櫓の外観が復元されています)、その後は近代化として画一的な街区が計画された為、長岡城を始め当時の町割りなども大きく変更されました。
|