・歌宿に境内を構えている雲晴寺の伝承によると、推古天皇の御代に聖徳太子が出羽三山の羽黒山を参拝する為に当地まで差し掛かった際、子不知が馬が通れない程の難所だった事から別当(馬子)だった跡見市兵衛に馬を連れて都に戻るように命じました。
聖徳太子は当地を去る際、「萬代と波は たち来て洗えども 変わらぬものは 水莖のあと」の歌を残し、後にこの歌が海岸の大岩に刻まれた事から「歌が浜」、跡見市兵衛が馬を連れて引き返したところを「駒返し」と呼ばれるようになったと伝えられています。
因みに源平合戦で木曽義仲が当地まで進軍した際も愛馬が登る事が出来ず引き返したと伝えられています。
鎌倉時代初期に親鸞上人が越後国府に流罪となり、その道中で当地を訪れた際、親鸞が村人から、地名の由来と聖徳太子が残した歌を聞き入り、「水莖の あともと遠かれ 歌が浜 洗いながすな 八重の白波」の歌を残しています。
跡見市兵衛は結局都に戻る事が出来ず、その後裔は当地に土着、室町時代末期頃に20代目の子孫が越中獄の眞淨寺に入り、駅長元年に歌が浜に帰国し浄土真宗の道場(後の雲晴寺)を開いています。
江戸時代に入り北国街道が開削されると宿場町に指定されますが、規模が小さく隣の外波宿とは合宿で、宿場の機能は半分ずつ分け合っていました。
荷物の引継ぎも青海宿方面のものは歌宿で引き継いで市振宿へ運ばれ、市振宿方面のものは外波宿で引継いで青海宿に運ばれ行きました。
本陣は現在の親不知駅付近とされますが、現在は移転したようです。
明治時代初期に当地で学問を教えた松田守義は現在の糸魚川市中谷内出身で、江戸で重野葆光等に師事し幕臣の土岐某の嗣子となりましたが、明治維新後に帰国し、歌村に遷り住んだとされます。
歌村では江戸で学んだ最新の学問を村人に惜しげもなく教えた為、村からは学識者を数多く輩出したと伝えられています。
北国街道:宿場町・再生リスト
新潟県:宿場町・再生リスト
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