・二俣宿は北国街道の宿場町で、規模は小さく、隣の田切宿と合宿だったものの大田切川と郷田切川に挟まれている交通の難所である事から川止の宿として重要視されたようです。
文化13年に一本木新田から引湯により開湯した赤倉温泉は高田藩が経営した温泉地で、日本唯一の藩営温泉として知られ、10軒程の温泉街が形成されました。
二俣宿は赤倉温泉の入口となった事から数多くの湯治客が往来し宿場も栄えたとされます。
宿場の脇本陣を担った畑山家は問屋を兼任した実力者で、明治11年に行われ明治天皇の北陸巡幸の際には畑山三十郎邸が御小休所として利用され、昭和12年にっは「明治天皇二俣御小休所址」の石碑が建立されています。
幕末の当主だった畠山三作は寺小屋を開く等、二俣宿住民の教育にも尽力、屋敷内には昭和52年の歌会始の選歌に入選した畑山正隆の「温泉の町の流れに熱帯魚 年どし殖えて群なし泳ぐ」の歌碑も建立されています。
宿場内に境内を構えている西蓮寺は建治2年に平家の武将の後裔とされる桃井上総介義衡が親鸞聖人の弟子となり西祐を名乗って開創した浄土真宗大谷派の寺院で、寛文4年に現在の寺号に改めています。
馬寄場跡と呼ばれる三角形の池はまだ自動車が普及する以前、馬が物資運搬で必要な動力源だった頃、馬を洗った馬洗い場の事で、当時は宿場の馬が全て洗える程広かったそうです。
宿場外れに集められた14基の五輪塔群は「御館の乱無名戦士の墓」と呼ばれ、天正6年に上杉謙信の死去に伴い跡目争いである「御館の乱」の犠牲者の墓碑や供養塔と云われています。
北国街道:宿場町・再生リスト
|