・中世、当地域の政治、行政の中心は春日山城やその城下町、直江津湊周辺(福島城の城下町)でしたが、慶長19年に松平忠輝が天下普請で高田城を築城すると、45万石とも75万石とも云われる高田藩が立藩し、高田城にはその藩庁と藩主居館が設けられた為、城下町、高田藩の藩都として町割りされました。
当初の北国街道の経路は判りませんが、高田城下の町割りを行う際に街道が引き込まれたと思われます。
高田城を中心にその周囲には家臣達が住まう武家地が設けられ、北国街道は城から見て西側の南北方向に開削、瑞泉寺手前で東側に折れ曲がり青田川に沿ってさらに南側に進路をとっています。
高田城下の南側の入口には伊勢町口番所が設けられ、旅人や運搬業者等に対して人物改めや荷物改めが行われ、さらに荷物の運上金(営業税)の取立て等も行われています。
本町が高田宿の中心的な役割があり、馬市が開催され、隣接する宿場町までの伝馬人足を務めています。本町2丁目の札の辻には高札場が設けられ、宿場の住民へ禁制や法度、掟書等の周知徹底が図られています。関町と府古町には問屋を設けた一方で、下小町、呉服町、横町には旅籠が許可されています。
本町7丁目が北国街道の追分で、当時の街道の名称は住んでいる人達から見て目的地の地名を付ける例が多いですが、当地では高田から出雲崎までは奥州道、金沢までは加賀道と呼んでいたようです。
加賀藩前田家の本陣は下小町に屋敷を構えている加賀屋、脇本陣は茶屋街の三国屋八郎右衛門宅を伊能忠敬が宿泊地として利用しています。
糸魚川藩主松平家は下小町の中村屋を本陣としています。
現在は近代化が進んだものの、雁木を持つ日本海側独特の町屋建築が残され、独自性のある町並み景観を見る事が出来ます。
北国街道:宿場町・再生リスト
新潟県:宿場町・再生リスト
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