・市振の地は越後国と越中国の国境に近く、難所と知られた親不知子知を控えていた事から、交通の要衝として重要視されました。
地名の「市振」は京都方面から見ると当地が越後国の「第一番の振り出し」に当たる事が由来とも云われています。
江戸時代に入ると幕府は街道の整備を行い、それに伴い全国に53箇所の関所を設置、当地にもその一つとして高田藩主松平光長に命じて寛永元年に市振関所が設けられました。
市振関所は日本海近くまで山が近接している独特な地形を利用し、北国街道の利用者が必ず関所を通るように街道を挟み込むように配されており、東西21間、南北95間の規模を誇りました。
関所の敷地内には番所の他、上役長屋、足軽長屋、遠見番所、井戸、馬ノ足洗井戸等が設けられ、人物改めや荷物改めが厳重に行われていました。
明治維新後に関所は廃止となり、施設も破却されましたが、唯一残された関所榎は推定樹齢250年以上、樹高17.5m、糸魚川市指定天然記念物に指定されています。
江戸時代後期に日本の近海で外国船の出没が頻発すると、幕府の命により諸藩の海岸線に砲台が設置され、高田藩は柏崎から市振の海岸に22の台場が設けられ、市振宿の東端の高台には砲台4門が整備されています。
北国街道は加賀藩主前田家が参勤交代の経路となった為、市振宿にも藩主が宿泊や休息で利用出来る本陣が設けられています。
加賀藩の本陣職は菊池家が歴任し屋号として「菊屋」を揚げ問屋職も併任、明治11年の明治天皇の北陸巡幸の際には御小休所として利用されています。
脇本陣は桔梗屋が担い、元禄2年には松尾芭蕉が奥の細道で市振宿に入った際、宿泊したとされます。
芭蕉は越後国の遊女でお伊勢参りの途中だった2人の女性と当地まで案内した老人の会話を寝床で聞き入り、「一家に 遊女もねたり 萩と月」の句を残しています。
宿場の高台に境内を構えている長円寺には相馬御風書による芭蕉句碑が建立されています。
宿場の象徴的な存在だった海道の松は平成28年の暴風の為に倒壊し景観が一変しましたが、近く安置されている地蔵尊や弘法大師が杖を突いて湧き出させたと伝わる弘法の井戸等が残されています。
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