・田切の地は白田切川と郷田切川に挟まれた交通の難所で、戦国時代には田切城が築かれ、信濃国からの敵の信仰を食い止める拠点の一つとして重要視されました。
天正10年、織田勢の越後国侵攻が本格化すると、御館の乱で疲弊した上杉勢は各地で敗戦が相次ぎ、当主である上杉景勝は越中国の要衝だった魚津城の救援を向かう為、春日山城から出陣しました。
しかし、信濃国からも織田家家臣の森長可の侵攻が行われた為、景勝は浄土真宗で上杉家と絆が強い本誓寺十世超賢にっ領内の宗徒、門徒を結集させ田切城で織田勢の防ぐ助力を要請しています。
田切城の城主は郷戸伝左衛門景清や五百川越守貞治の名が見られるようですが詳細は不詳です。
郷戸氏は元々信濃国北部に及んだ際、上杉謙信に従い、川中島の戦いにも上杉方として参陣し、天正8年には当時の当主と思われる郷戸源助に対し、上杉景勝から田切宿の問屋に命じられています。
天正8年当時は上杉景勝と武田勝頼は同盟関係にあった為、源助には武田家の印判状を持つ使者を開山宿まで継送るように命じています。
江戸時代に入り改めて北国街道が開削されると宿場町に指定されましたが、規模が小さい事もあり、隣の二俣宿とは月半分で宿駅の役割を交代する合宿でした。
文化13年に開湯した赤倉温泉は田切宿の庄屋を担った中嶋源八等が中心となり高田藩の許可を得たもので、唯一の藩営温泉として知られています。
江戸時代末期には市川一家の侠客として名を馳せた小嶋常五郎を輩出し、田切宿の入口には天明6年に建立された馬頭観音碑や、明治28年に建立された聖徳太子碑と共に、小嶋常五郎碑が建立され、墓所は田切集落の共同墓地に設けられています。
北国街道:宿場町・再生リスト
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