斐太神社(妙高市)概要: 斐太神社は新潟県妙高市宮内に鎮座している神社です。斐太神社の創建は大同2年(807)となっている一方で、太古に大國主命が御子言代主命と建御名方命を引き連れ領土経営をし矢代川鎮護として岡澤山山頂付近に鎮座したとの伝承も残っています。又、境内に隣接した斐太遺跡には弥生時代から古墳時代にかけての住居跡が130基(推定:200〜300基)発見され、観音平・天神堂古墳群(国指定史跡)では様々な時代、形態の古墳が発見されている事から当時の住民や豪族の氏神が祀られていたとも考えられます。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載された式内社斐太神社に比定されている事からも古代から信仰の対象になっていたと思われます。
歴代領主からも崇敬され、特に戦国時代は上杉謙信の信仰が厚く、春日山城の支城である鮫ヶ尾城の鬼門鎮護として天正2年(1574)に現在地に遷座し社殿を造営、矢代大明神(当初は岡沢山の奥に鎮座)を合祀して周囲128ヶ村の総社として多くの社領(宮内、神宮寺、乙吉、籠町、雪森、青田、稲荷、十日市、飛田集落に及ぶ)を寄進したとされます。建御名方命が何時頃合祀されたのかは不詳ですが当初は南葉山の山頂に鎮座していたと伝えられています。天正6年(1578)に上杉謙信が死去すると上杉景虎(御館)と景勝(春日山城)との間に「御館の乱」が勃発、天正7年(1579)に御館が落城し景虎が実家にある相模まで退く際、鮫ヶ尾城へ立ち寄ると、当時の城主堀江宗親が裏切り鮫ヶ尾城に火をかけた事で戦場となり斐太神社も兵火で焼失してしまいます。
その後、斐太神社は再興されましたが明暦2年(1656)の火災により再び焼失し社殿、社宝、記録などが悉く焼失し以前の由来等が曖昧になっています。その後は、歴代高田藩(藩庁:高田城)の藩主が崇敬庇護し、天和3年(1683)の検地の際には社領5石3合が付与された他、榊原家では代々藩主が参拝し、三本槍、一本槍、薙刀を寄進、現在も社宝として大切に保存されています。古くから神仏習合し別当寺院として神宮寺が祭祀を担っていましたが江戸時代に他所に移り、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され明治6年(1873)に村社、昭和17年(1942)に郷社に列しています。
現在の斐太神社の社殿は昭和33年(1958)の火災で焼失後再建されたもので、拝殿は切妻、銅板葺、妻入、桁行4間、梁間3間、正面1間切妻向拝付。本殿は切妻、銅板葺、妻入、桁行3間、梁間3間。祭神は八千矛神(大国主神)、積羽八重事代主神(矢代大神)、健御名方神(諏訪大神)。ただし、「神名帳考証」「越後野志」では巨勢雄柄宿禰命。「日本神祇志料」「北越風土記節解」では荒人命(械田明神) を祭神としています。
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