妙高市: 鮫ヶ尾城

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概要・歴史・観光・見所
鮫ヶ尾城(妙高市)概要: 鮫ヶ尾城の築城年は不詳ですが戦国時代の永禄年間(1558〜1570年)から天正年間(1573〜1593年)に築かれたと推定されています。鮫ヶ尾城は越後国(新潟県)と信濃国(長野県)の国境から春日山城上越市)までの略中間にあたり北国街道からの敵の侵入を防ぐ春日山城の直近の支城、最終防衛ラインとして重要視されました。その為、鮫ヶ尾城は当地方としては最大級の規模を誇り北と西の2方向は深い沢に囲まれ南側は河川が流れる要害堅固の山城(標高約200m程)として計画されました。

天正6年(1578)に上杉謙信が死去すると上杉景虎(北条氏康の7男)と景勝(謙信の姉桃仙院の子、謙信の甥)の2人の養子の家督争い、所謂「御館の乱」が起こり、越後国を中心に北日本の大名まで巻き込んだ様相を見せました。当時の鮫ヶ尾城の城主である堀江宗親は、天正5年(1577)には加賀攻略の最前線である津幡城(石川県津幡町)に赴任するなど謙信の信任が篤く、同じく重要視された鮫ヶ尾城の城主に抜擢されたと思われます。宗親は景虎が立て籠もる御館に1万の軍勢を引き連れ加勢するなど景虎方の有力武将として行動し鮫ヶ尾城もその拠点の1つとして度々利用されています。当初は景虎有利に戦局が展開しましたが、家臣団の切り崩しや武田勝頼の見限りなどで次第に不利に陥り、天正7年(1579)2月になると景勝の攻勢が強まり、3月17日に御館は落城、景虎は実家である北条家を頼り再起を図ろうと鮫ヶ尾城経由で相模国(神奈川県)へ退去しようと入城します。しかし、宗親は既に景勝側の安田顕元に内通していた為、景虎を引き入れた後に二の丸に火をかけ鮫ヶ尾城を脱出、その後、総攻撃を受け3月24日に景虎は妻子共々自刃し鮫ヶ尾城は落城します。その後、鮫ヶ尾城は廃城となり、宗親も記録上出現していないことから冷遇又は処罰されたと思われます(宗親の支配領域は安田顕元に与えられています)。

鮫ヶ尾城は東西600m、南北300m、頂上付近の本丸(東西50m、南北20m)を中心に二ノ丸、西ノ丸、東一ノ丸、東二ノ丸が主要な郭でそれぞれ深い堀切で分断され、その他のにも小規模な郭が200箇所以上が確認されています。確認されているだけでも堀切は16条、竪堀は11条、土塁20箇所あり、米蔵が配されたと思われる郭からは墨化した米が発見され鮫ヶ尾城落城の悲劇を伝えています。又、鮫ヶ尾城の北東には延喜式神名帳に記載された斐太神社が鎮座し、城の鬼門鎮守として歴代城主から篤く信仰されていました。鮫ヶ尾城は中世の山城の遺構で歴史的にも重要なことから平成20年(2008)に国指定史跡(3238u)に指定されています。又、城跡周辺からは数多くの遺物が発見されており、貴重な事から名称「鮫ヶ尾城跡出土品」として平成21年(2009)に妙高市指定文化財に指定されています。

鮫ヶ尾城:写真

鮫ヶ尾城
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