五十嵐神社(三条市)概要: 五十嵐神社は新潟県三条市飯田に鎮座している神社です。五十嵐神社の創建は不詳ですが、頸城、上田郷、下田郷の開拓者五十日帯彦命(第11代垂仁天皇の第8皇子 ※日本書紀、先代旧事本紀では五十日足彦命、丹哥府志では五十日足彦)の古墳(御陵墓伝説地)の上に鎮座し、五十日帯彦命が祭神として祀られている事から古くから周囲の産土神として信仰されてきたと思われます。
ただし、新潟県上越市三和区所山田字鳥居場に鎮座している五十君神社の社伝によると五十日帯彦命の歿地は高志八岐村(上越市三和区所山田)として家臣である大賀・不盡の両名が五十日帯彦命の御霊を勧請し五十君神社を創建したと伝えられています。
五十嵐神社は延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳に式内社として記載されてる蒲原郡十三座の一つ"伊加良志神社"の論社で中世、長く当地を支配した五十嵐氏からは氏神として崇敬されました。ただし、三条市北五百川字宮地に鎮座している八木神社も式内社伊加良志神社の論社とされます。
当初は五十嵐家の氏神として館内(五十嵐館)に鎮座していましたが(鬼門鎮護の為、館から北東方向に鎮座していたとも)、江戸時代初期に館が排され丘陵地に遷座し明治7年(1874)に現在地に遷座再建されました。
上杉家の跡継ぎ争いである「御舘の乱」で、五十嵐氏は敗北した上杉影虎方に与した事で没落し、五十嵐神社も衰微しましたが、江戸時代に入ると村松藩(新潟県五泉市:本城−村松城)の藩主堀家から庇護され社領一反四畝が安堵されていました。古く神仏習合し、往時は「若一王子」と呼ばれていましたが、明治時代の神仏分離令を経て社号を「五十嵐神社」に改め、明治5年(1872)に村社、大正2年(1916)に県社に列しています。
五十嵐神社拝殿は木造平屋建て、切妻、銅板葺き、平入、桁行7間、外壁は真壁造板張り。本殿は覆い屋内部の為に不詳。神楽殿は入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行2間、張間2間、外壁は柱のみの吹き放し、朱色に塗られた高欄付き、五十嵐神社の祭礼の際には「稚児舞」が奉納されます。
五十嵐神社の社宝には那須与一(五十嵐小文治吉辰は武芸に優れ、弓の名手だった那須与一と親交があったとされます。)が使用したとされる木盃、空海筆伝"若一王寺"の額、小野道風書伝の額などがあります。祭神は五十日帯彦命。合祀神:大ひるめの尊、大山祇命、応神天皇、建御名方命、倉稲魂命。
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